あのドラマのキスシーンが、なぜか胸に刺さる
夜中、事務所から帰ってきて、コンビニ飯を温めながら何となくつけたテレビ。ぼんやりと眺めていると、恋愛ドラマの佳境。美男美女が泣いたり、笑ったり、最後には抱き合ってキスして…。こっちは一人で冷めた焼きそば弁当を口に運んでるというのに、画面の中は眩しすぎるくらいの幸福感に満ちている。どうしてこんなに胸がざわつくのか。歳のせいか、疲れのせいか、それとも、ただただ寂しいからなのか。
仕事が終わった夜に流れる“幸せの象徴”
この時間帯のドラマって、なぜか“幸せそうな人たち”が主役のものが多い。昼間はどんなに忙しくても、夜は誰かと寄り添い、語り合い、明日への希望を見出して眠りにつく。そんな当たり前の幸せが、こちらには妙に遠く感じられる。仕事を終えた達成感も、ドラマのエンディング曲で急に冷えてしまうのは、比較してしまう自分がいるからだ。
誰にも邪魔されないはずの時間に感じる孤独
「ひとりでゆっくりできる時間」が、一番つらい。ドラマの登場人物が笑顔で「ただいま」と言えば、心の奥に響く。「誰かが待っている」という設定が、現実の静けさを際立たせる。誰にも邪魔されない時間は、裏を返せば誰とも共有していない時間だ。司法書士という仕事は、日中たくさんの人と関わっているようで、実際には誰とも深く関われていないという孤独がある。
司法書士という職業が生む、感情の置き場所のなさ
登記や書類作成など、正確性と効率が求められる仕事の中で、感情なんて邪魔者扱いされる。だからこそ、ふとした瞬間にあふれてくる感情の置き場所がなくなる。感情を吐き出す相手もいなければ、話を聞いてくれる誰かもいない。だからテレビの中の会話に自分を重ねてしまい、余計に胸に刺さるのだ。
忙しいのに、なぜか寂しい
日々、依頼者との打ち合わせ、登記業務、法務局とのやりとり…、とにかくやることは山ほどある。だからこそ、寂しさを感じる余裕なんてないはずなのに、仕事がひと段落すると、一気に押し寄せてくる「ぽっかりと空いた感情の穴」。忙しければ寂しくない、というのはただの言い訳かもしれない。
相談相手は依頼者、でも本音は話せない
司法書士の仕事は、他人の人生の一部に深く関わることもある。相続、離婚、会社設立。人生の転機に立ち会うからこそ、こちらの感情は引っ込めて「専門家」でいなければならない。だからこそ、誰にも本音を話せないまま、ただ“きっちりとした仕事”だけが積み上がっていく。
事務員との距離感と“しゃべらない時間”の居心地の悪さ
雇っている事務員は真面目でよく働く。でも、だからこそ、変に気を遣ってしまう。「雑談」ひとつにも緊張がある。沈黙の時間が苦しいが、それを破る勇気もない。気まずさを感じながら机に向かっていると、ますます孤立感が増す。この距離感の正解は、いまだにわからない。
気づけばコンビニ飯、味噌汁に話しかける日もある
帰り道、家に寄らずにコンビニで済ませることが増えた。「今日は何食べようか」と自問しながら棚を眺める時間が、妙に長い。家に帰って味噌汁をすすりながら、思わず「疲れたな…」と口に出してしまう。誰に聞かせるでもなく、ただ空気に向かって。
「いただきます」と「ごちそうさま」を一人で言う夜
昔、母に「一人でもちゃんと挨拶しなさい」と言われた。「いただきます」と「ごちそうさま」を一人で言うようになって十数年。形だけのその言葉が、今日はやけに空しい。誰かと囲む食卓が恋しいと、ふと感じてしまう夜がある。
この生活は誰のため?何のため?
自営業として、一人で責任を負い、一人で稼ぎ、一人で帳簿を締める。やりがいもある。でも、ふと立ち止まると「誰のために働いてるんだろう」と思うことがある。自己実現?生活費?社会貢献?どれも本当だけど、心に響く“答え”ではない。
それでも仕事があるということの救い
この生活を変えたいと思いながらも、依頼の電話が鳴るとどこかホッとしてしまう。誰かに必要とされることが、ギリギリのところで自分を保たせてくれる。仕事があることで、孤独が一瞬だけ消える。
誰かの手続きに集中している間は、余計なことを考えずに済む
申請期限に追われているときは、恋愛ドラマの余韻に浸っている暇なんてない。登記情報をチェックし、印鑑証明の有効期限を確認し、電子申請の操作を間違えないよう集中する。そうやって“仕事モード”になっている間は、感情が麻痺してくれる。
“頼られている”という小さな誇り
「先生にお願いしてよかったです」そう言われたとき、ちょっと泣きそうになる。自分の存在が、誰かの人生に意味を持っていたんだと感じられる瞬間。たとえ一人でも、その言葉の余韻で、また頑張ろうと思える。
刺さる夜を乗り越える、ささやかな技術
深夜の恋愛ドラマは、見なければ見ないで済む。でも、見てしまう。そして刺さる。だったら、刺さったままでもいい。無理に「乗り越えたふり」なんてしなくていい。自分の中で折り合いをつけるだけでいい。
観ない、ではなく“観たうえで泣く”という選択
「どうせまた辛くなるから見ない」は一つの防衛。でも、ときには“見て泣く”という選択もありだ。感情を出すことは悪いことじゃない。涙を流して、そのぶん明日を軽くできるなら、それでいいと思う。
感情を否定しない習慣が、次の日の自分を救う
「こんなことで落ち込むなんて」と自分を責めてきた。でも、それってただの抑圧。寂しいときは寂しい。孤独を感じたなら、その気持ちごと認めてやることが、自分にとって一番の救いになる。感情を否定しないことが、長い人生を走り続ける術だ。
同じように頑張っているあなたへ
司法書士に限らず、孤独と隣り合わせで頑張っている人は多い。表には出せなくても、深夜の画面の向こうで同じように涙ぐんでいる人は、きっとどこかにいる。自分だけじゃない。そのことに、少しだけ救われてほしい。
独身でも、愚痴が多くても、心は壊れていない
「こんな年でまだ独身」「愚痴ばかり言ってる」…そんな自分を責めなくていい。感情があるということは、まだ人として大事な部分が残っている証拠だ。むしろ、疲れてもなお感じる心があることを誇っていい。
「刺さる」ことは、まだ感情が死んでいない証拠
恋愛ドラマが刺さる夜。それは、心が鈍っていない証でもある。まだ希望を捨てていないし、誰かと笑い合いたいという気持ちがあるからこそ、刺さるのだ。なら、それを大事にして、また明日も仕事に向かえばいい。そんなふうに、自分に言い聞かせている。