依頼者の人生は重い。でも俺の孤独だって、軽くはない。

依頼者の人生は重い。でも俺の孤独だって、軽くはない。

人の人生を預かる仕事、その重みは時にプレッシャーになる

司法書士という仕事は、書類を扱うだけに見えて、実際には人の人生を預かるような仕事です。不動産の名義変更や遺言の手続き、相続の相談――その一つひとつに、それぞれの依頼者の人生の背景がある。ときに家族の確執や、亡くなった人への思いまで背負わされることもあります。責任は重く、失敗は許されない。依頼者は「先生にお任せします」と言うけれど、その言葉の裏にあるものを、俺は誰にも打ち明けられずに飲み込んでいます。

「失敗できない」現場にいつも立たされている

この仕事において「ミス」は、人生を狂わせる引き金になりかねません。例えば相続登記の期限内に書類が出せなかっただけで、相続税が跳ね上がったり、家族の間に取り返しのつかない亀裂が入ったりする。そんなプレッシャーの中で、毎日書類を整え、法務局に足を運ぶ。かつて、自分の名前を一文字間違えて登記した依頼者がいて、夜中に目が覚めるほど動揺したことがあります。人の人生が、印鑑一つで左右される世界です。

書類一つで人生が狂う、その怖さ

一枚の紙。その紙切れが、数千万の不動産の所有者を決め、家族の未来を左右する。そんな現場に日々立ち会いながら、自分の手が震えない日はありません。ある日、認知症の親を持つ娘さんが、「この手続きが済んだら、ようやく一息つけます」と言った。その言葉にこたえるため、俺は一晩中書類のチェックをした。でもふと思ったんです。誰かの安心のために、自分の安心はどこに行ったんだろうと。

プレッシャーを話せる相手がいないという現実

同業の仲間はいても、愚痴を言えるような関係ではない。事務員にさえ「弱い」と思われたくなくて、黙ってしまう。夜、家に帰ってもテレビだけが喋ってる。SNSに吐き出せば軽く見られる気がするし、誰かに相談すれば「疲れてるんですね」の一言で片づけられる。だから黙る。プレッシャーは静かに蓄積されていき、やがて、誰にも気づかれずに心を蝕む。

「感謝されてるのに、なぜか空しい」

「ありがとうございました」「助かりました」――依頼者からの感謝の言葉。それは確かに嬉しい。でも、その瞬間の温もりは、翌日の冷たい朝には消えてしまうんです。何かを与えたはずなのに、自分は何も持っていないような感覚。俺は、誰かの問題を解決するたびに、自分の中にぽっかりと穴が空いていくのを感じています。

ありがとうの言葉が心に響かない夜

以前、ある依頼者が泣きながら感謝してくれたことがありました。嬉しかった。でも帰り道、その感情は不思議と空っぽだった。誰かを支えたその手に、温もりが残っていない。仕事としての達成感が、心の充足感に繋がらないこともあると、その時はじめて気づきました。

他人の幸せを支えながら、自分の幸せには鈍感に

依頼者の幸せを願う一方で、自分が何を求めていたのか、わからなくなる時があります。休日にふと、「今日は誰とも喋っていない」と気づく。そんな日が月に何度もある。人の役に立ちたいという気持ちは本物です。でも、それが自分の幸福と繋がっていないのは、どこか間違っている気もしています。

事務所に戻れば、誰もいない

事務所は静かです。仕事中は事務員さんがいて、多少のやりとりもある。でも彼女が帰った後は、俺ひとり。パソコンのファンの音と、郵便受けのガサリという音が、たまに響くくらい。そんな空間に身を置いていると、仕事中に感じていた緊張とはまた違う、じわじわと心に染みる孤独を感じるのです。

事務員が帰ったあとの沈黙が怖い

「お先に失礼します」と言われてドアが閉まる音がする。そこから、時計の針の音だけが聞こえる。孤独とは「誰もいないこと」ではなく、「誰もいてほしいと思われていないこと」かもしれない――そんなふうに思う夜が増えてきました。人と接する仕事なのに、人とつながっていない気がする。誰かに必要とされているようで、実は自分の存在なんて誰の心にも残っていないんじゃないか。そんな妄想に取り憑かれる。

喋る相手がPCしかいないという現実

依頼者と会話する時間はあります。でもそれは業務の一環であって、心を交わすようなものではありません。ふと気づけば、今日まともに喋ったのは事務員と1分、あとはパソコン。PCのカーソルと、俺のため息だけが事務所に残る日もあります。静寂はときに拷問のようで、逃げ場のない現実です。

「お疲れ様」と言われるだけで泣きそうになる

たまに、役所の人が「いつもご苦労さまです」と声をかけてくれることがあります。たったそれだけで、なぜか涙が込み上げてくる。日々、張り詰めたまま働いていると、そんな小さな優しさに耐えられなくなる。人に「優しくされる」ことに飢えていることに、自分でも驚く瞬間です。

たまに届くLINEですら心がザワつく

通知音が鳴ると、無意識に「誰だろう」と期待してしまう。でも、だいたいは事務連絡か迷惑メッセージ。そんな中で、たまに友人から来る一言が、逆に心をえぐる。「元気?」とだけ書かれたメッセージが、なぜか「お前、ちゃんと生きてるか?」と問いかけられているように感じる。自分の孤独を再確認するトリガーにもなる。

「依頼者の人生の重み」VS「俺の孤独」

誰かの人生の重さに向き合いながら、自分の孤独の存在感に打ちのめされる。比べるべきものではないけれど、心の中ではいつも天秤が揺れている。重いものを背負っているのは、依頼者だけじゃない。俺だって、俺の人生を、背負ってる。

比較するもんじゃないけど、してしまう夜

「この人の人生、大変だったんだな」と思いながら話を聞く。でも帰り道、無意識に「じゃあ俺の人生はどうなんだ」と問い返してしまう。依頼者の人生に共感しながら、自分の人生には共感できていない。そんな歪さに気づいたとき、どうにもならない虚しさが襲ってくる。

「俺はなんでこんなに孤独なんだろう」

仕事はある、感謝もされてる。でも、人間としてのつながりが希薄なまま。学生時代の友人たちは家庭を持ち、忙しくも幸せそうだ。俺はというと、書類の山に埋もれながら、自分の人生の意味を問い続けている。「司法書士になってよかったのか」と、自問することも増えた。

俺の人生だって、誰かにとって重いものだったらいいのに

依頼者の人生を重く感じるのは、そこに物語があるからだ。じゃあ、俺の人生には物語があるのか? たまにそう考える。そしてふと、「俺の人生も、誰かにとって意味があるものだったらいい」と願ってしまう。自分自身の存在価値を、他人の中に見出したくなる。

誰かの人生に影響を与えるって、本当は羨ましいことだ

家族をつなぐ、命を継ぐ、そんな手続きを手伝っていると、ふと羨ましくなる。俺も誰かにとって、そんな存在になれるのだろうか。人生の役割を果たしている実感が欲しいのかもしれない。

それでもこの仕事をやめられない理由

矛盾しているようだけど、この仕事が俺の生きる理由でもある。どんなに孤独でも、誰かの「助かった」の一言が心のどこかを救ってくれている。自分の人生を誰かの役に立てていること、それが今のところ、俺にとっての唯一の「居場所」なんです。

孤独の中にしか見つからない誇りもある

独りで働いているからこそ、積み重ねてきた実績や信頼には、誰よりも自分が誇りを持てる。人に誇ることじゃなくても、自分が「やってきた」と思えることがある。孤独はつらいけど、その中で自分なりの誇りを見つけることもできる。そうやって、今日もなんとか生きている。

司法書士としての「居場所」はここにしかなかった

他の仕事じゃダメだったと思う。法律や書類というフィルターを通して、人と関われるこの仕事だから、自分の性格に合っているのかもしれない。派手じゃないけど、静かに誰かを支える役割。それを続けていく中で、自分の存在がかろうじて形を保っている。

読んでくれている誰かの孤独に、少しでも寄り添えたなら

こんな話を読んで「わかるよ」と思ってくれる人がいたら、それだけで書いた意味がある。孤独は、誰かに理解されるだけで少し軽くなる。だから俺も、こうして文章を書いている。司法書士としての顔ではなく、ただの人間として。

誰かの心の中で「わかるよ」と思ってもらえるだけで救われる

この文章を読んで、あなたが少しでも「一人じゃない」と思えたなら、俺も少し救われる。きっと、仕事の中で孤独を感じているのは俺だけじゃない。同じように踏ん張っている誰かと、どこかでつながっていられる。それが、今の俺には一番の支えです。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。