レジカウンター越しの社会参加
誰かと話したのはいつぶりだろう。ふとそんなことを思いながら、夜10時過ぎのコンビニに立ち寄る。レジに立つ若い店員が、慣れた手つきで商品をスキャンしながら「温めますか?」と尋ねる。その一言に、思わず「お願いします」と返す。たったそれだけの会話なのに、なぜだか心がほぐれる。こんなふうに、自分が“社会の一部”であることを再確認できる瞬間が、今の私には本当に貴重なのだ。
仕事帰り、唯一の「会話」がある場所
一日中、誰とも言葉を交わさないことがある。依頼が電話やメールで完結する日は特にそうだ。そんな日でも、コンビニのレジだけは違う。「袋ご利用ですか?」「ポイントカードは?」この定型文のようなやり取りにすら、私は救われている。人と話した実感があるだけで、心がふっと軽くなるのだから、人間って面倒で、でもやっぱり寂しがりなんだと思う。
透明ビニール越しの接点に、なぜか安心する
コロナ禍以降、レジには透明な仕切りがついた。最初は疎外感があったが、今はその透明な膜がむしろ心地いい距離感に感じるようになった。話しかけても、表情は見えない。でも、目線だけで伝わる何かがある。近すぎず、遠すぎず。私にはちょうどよかったのかもしれない。人と接したい、でも深入りはしたくない。そんな矛盾を抱えながら、今日もお弁当を温めてもらう。
司法書士という仕事の孤立感
司法書士は、たしかに人と関わる仕事ではある。だがその関わりは一方通行であることが多い。相談されることはあっても、自分が相談する機会はほとんどない。守秘義務という名の壁もあるし、「先生」と呼ばれるたびに、誰かに甘えることを忘れていく。
相談されるけど、相談できない職業
「この内容は秘密でお願いします」そう言われるたびに、心の奥底では「僕の話も誰かに聞いてほしい」と思っている自分がいる。けれど、司法書士という職業柄、弱音を吐くのは難しい。誰かの人生の大事な局面に関わるからこそ、こちらが感情を持ち出すわけにはいかない。そんな緊張感の中で、私は毎日言葉を削って生きている。
人の悩みを聞いて、自分の悩みを飲み込む
離婚、相続、債務整理、死後事務──どれも人の人生の節目だ。そのたびに、当事者の重たい感情を預かるようにして対応する。でも、終わった後、自分の中には何かが残る。蓄積された“他人の悩み”が、自分の中で言語化できない重さになっていく。その感情を吐き出す場は、正直ほとんどない。
「専門職=頼られる側」という見えない孤独
「頼れる司法書士です!」そんなコピーをホームページに載せた。けれど、実際には誰に頼ればいいか分からない日もある。専門職という肩書きは、時に仮面のように私の本音を隠してしまう。弱音を吐いた瞬間、信頼が揺らぐ気がして、結局何も言えない。だからこそ、レジでの他愛ない会話が、仮面を外すほんの数秒になる。
コンビニの存在が“生活の境界線”
日が沈み、事務所の灯りを消して向かう先は、たいていコンビニだ。あの明るさが、夜の孤独を少しだけ和らげてくれる。自動ドアが開いた瞬間に感じる冷気、棚に並ぶおにぎりや弁当、そしてレジの「いらっしゃいませ」。それらすべてが、「今日も終わったな」と実感させてくれる。
24時間営業に救われるメンタル
夜中に思い詰めてしまう日もある。仕事で失敗した日や、誰とも話せなかった日、何も達成できなかったと感じる日。そんなとき、24時間営業のコンビニがそこにあることは、本当に救いになる。誰もいない深夜でも、あの明るい光がついている限り、「自分の居場所が完全にゼロではない」と感じられるのだ。
レジ待ちの列で感じる“人との同時存在”
誰かの後ろに並ぶ。ただそれだけのことが、妙に心地いい。「自分以外にも、今この場所で生きている人がいる」と感じられる瞬間だ。普段は他人と距離をとっている私も、このときばかりは少しだけ“他人と共にある”ことを実感できる。レジを通る数十秒間が、私にとっては一日のハイライトになっているのかもしれない。
この仕事を選んだ意味を、ふと考える
司法書士になった理由。それは正義感だったり、独立したいという思いだったり、人それぞれだろう。私もそのときなりに「人の役に立ちたい」と思っていた。でも、今はどうだろう。誰かの役に立てている実感と引き換えに、自分がどこか摩耗している気もする。
誰かのためになる実感と、自分が置いてけぼりになる感覚
「助かりました」「ありがとうございます」そう言われるたびに、自分の仕事が意味あるものだと感じる。けれど、それが積み重なっても、自分の中が満たされるわけではないと気づくことがある。人のために尽くすことで、自分のケアを後回しにしている──そんな矛盾に、時々気づいてしまうのだ。
「ありがとう」にすがって生きている
依頼者からの「ありがとう」がなければ、私は仕事を続けられていなかったかもしれない。それくらい、あの一言は心の支えになっていた。でも、それだけで本当に満足なのか? ふと立ち止まったとき、自分自身を大事にできていないことに気づいて、怖くなる。
自己肯定感は、どこで補うべきか
承認欲求ではなく、自分で自分を認める力。司法書士という職業を続けていくうえで、自己肯定感は不可欠だ。けれど、誰かの人生を支える裏で、自分を見失いそうになることもある。そんなときは、今日一日がんばった自分に「お疲れ」と言ってあげる時間を、意識的に作るようにしている。
たまには吐き出したっていいじゃないか
愚痴っぽい文章になってしまった。でも、誰かが読んでくれるなら、それで十分だ。司法書士という立場にいても、一人の人間であることに変わりはない。たまには弱さや孤独をさらけ出してもいい。それが誰かの共感になれば、それこそがこの文章の意味になる。
司法書士だって人間です
「先生なんだから」「専門家なんだから」そう言われることがある。確かに専門知識を持っているという意味では正しい。けれど、日々迷い、悩み、落ち込むことだってある。笑うこともあれば、泣きたくなる夜もある。それでもまた、明日も事務所を開ける。それが今の私の“普通”だ。
愚痴を共有することで、誰かの救いになるかもしれない
この文章を読んで、誰かが「自分だけじゃなかったんだ」と思ってくれたら、それが一番の救いだ。愚痴や弱音は、共感を生む力がある。完璧じゃない姿を見せることで、誰かの心が軽くなるなら、それでいい。私はこれからも、コンビニのレジで「温めますか?」と聞かれながら、自分の居場所を探していく。
孤独を受け入れることが、前に進む第一歩
孤独を否定するのではなく、受け入れる。そこからしか、本当の意味での前進は始まらないのかもしれない。誰かと話せない日もあるし、誰にも頼れない夜もある。それでも、自分の足で立っている限り、きっと大丈夫だと思える瞬間がくる。そのために、まずは今日を乗り切る。それで十分だ。
一人でも、仕事に誇りは持てる
誰かに褒められなくても、拍手されなくても、私は自分の仕事に誇りを持っている。一人で戦っている司法書士たちが、全国にたくさんいることも知っている。誰にも見えない場所で、それぞれが静かに闘っている。その事実が、私の背中を押してくれる。
レジの一言が心に響く日もあっていい
「温めますか?」たったそれだけの言葉が、今日の自分を救ってくれることもある。そんな日があっても、全然いいと思う。人は案外、ささいなことで救われる。孤独を抱えた司法書士でも、誰かの言葉ひとつで前を向ける。それが今の、私の現実だ。