笑顔でいるのが仕事、でも心がすり減っていく
司法書士という仕事は、どれだけ疲れていても、どれだけ眠れていなくても、人前では笑っていないといけない。依頼者に「大丈夫ですよ」と声をかけるとき、心の中では「自分の方が大丈夫じゃない」と思っていることもある。だけど、そういう弱音を吐ける相手がいない。笑顔の下で、叫びたくなるような日もある。けれどそれを表に出せば、信頼を失うんじゃないかと怖くて言えない。
「大丈夫です」って口癖になっていないか
最近、自分でも気づいた。やたらと「大丈夫です」と言っている。銀行の対応に追われている日も、登記書類が戻ってこなくて不安な日も、「大丈夫です」と言ってしまう。これって、自分を守るための反射なんだと思う。誰にも心配されたくないし、面倒な奴だと思われたくないから、先に「大丈夫」と言ってしまう。でも、そうやって感情を押し殺しているうちに、本当に自分が壊れていく気がする。
笑ってるけど、たぶん誰よりもしんどい
笑ってる人が一番つらいって、本当だと思う。依頼者からの笑顔に笑顔で返しながら、「今日は夕飯、食べる気力あるかな」とか、「またひとりでコンビニか」とか、そんなことを頭の片隅で考えていたりする。事務所の中で一人、パソコンに向かっていると、どこかで自分の存在がすり減っていってるような気がしてくる。笑顔は、もう癖になってる。だけど、本音はいつも心の奥に閉じ込めたままだ。
電話を切ったあと、ふと机に突っ伏したくなる瞬間
何気ない一本の電話。依頼内容はよくある相続登記の相談。でも、説明をし終えて電話を切った瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。誰にも見られていないのを確認して、ふっと机に突っ伏す。小さなため息を一つつくと、「こんなんでこの先やっていけるのか」と頭の中で問いが浮かぶ。けれど次の電話が鳴れば、またスイッチを入れて笑顔で出る。その繰り返しに、いつか限界が来るんじゃないかと怖い。
目の前の依頼者より、自分の心配をしたいときもある
本音を言えば、「今はあなたの話より、自分の不安を聞いてほしい」と思うこともある。売上が減ってきたこと、体力の衰え、将来の孤独。だけど、そんなことを言ったところで依頼者には関係ないし、弱さを見せればこの業界ではやっていけない。だから、今日も笑顔で「それはご安心ください」と言う。でも、電話を切ったあと、ぽつんと残される自分は誰に安心させてもらえるんだろうと、ふと考えてしまう。
相談される側だって、本当は誰かに相談したい
「相談に乗るのが司法書士の仕事」——確かにその通り。でも、自分の悩みや不安を話せる相手がいないことは、想像以上にきつい。とくに地方の一人事務所では、なおさらだ。事務員さんにすら弱音は吐けないし、同業者とは仕事の話ばかりで、心の話はできない。誰かに相談したくてたまらないけれど、どこにもその場所がない。そんな空虚さを抱えながら、今日もまた依頼者の話に耳を傾けている。
「先生なら頼れると思って」その一言が重い
「先生なら信頼できると思ってお願いしました」。その言葉、ありがたい。でも、同時にプレッシャーでもある。「自分が間違えたらこの人の人生に影響が出る」と考えると、夜眠れないことだってある。たとえば、昔あったある相続の案件。登記完了までの手続きがややこしく、確認のため何度も法務局に足を運んだ。依頼者には「すべてお任せで」と言われていたけれど、内心は胃がキリキリしていた。
事務員さんにも言えない孤独な決断
事務員さんは本当にありがたい存在だ。でも、だからこそ言えないこともある。経営のこと、資金繰りのこと、人に言えば不安を与えてしまうような内容は、一人で抱え込んでしまう。昼休みに「今日、天気いいですね」と何気ない会話をしながら、その裏で「このままの売上で来月やっていけるか?」と計算している。孤独な決断の積み重ねが、笑顔の奥に静かに沈んでいく。
愚痴をこぼす場所すら思いつかない日々
TwitterもFacebookも、今はもう何を書いても誰かに見られる時代。ちょっとした愚痴ですら「この人、余裕なさそう」と思われかねない。だから、どこにも吐き出せない。深夜、布団に入ってから「もう無理かも」と思っても、翌朝にはなかったことにして、ネクタイを締める。愚痴をこぼす場所がないというのは、じわじわと心を蝕んでくる。
誰かの人生に関わる仕事だからこそ言えないこと
この仕事は、登記ひとつとっても人の財産や相続、未来に関わる。その責任の重さを、毎日実感している。だからこそ「疲れた」「もうやりたくない」なんて言えない。でも、責任感という言葉で自分を押しつぶしていたら、いずれ壊れてしまう。どこかで「限界です」と言える環境があっていい。けれど現実は、そんな場所がどこにも見当たらないのが、司法書士という仕事の孤独だ。