業務が終わると、ただ寂しさだけが残っていた

業務が終わると、ただ寂しさだけが残っていた

帰り道に感じる、言いようのない虚しさ

仕事が終わって、事務所を閉めて、鍵をかける。誰もいない道を歩いていると、自分が透明になったような感覚に襲われる。どこにも属していないような、誰にも気づかれていないような、そんな気持ちだ。コンビニの明かりがやけにまぶしく感じるのは、自分の内側が暗すぎるからかもしれない。誰かに会いたいと思っても、誰の顔も思い浮かばない。

寄り道する気力もない

以前は銭湯やラーメン屋にふらっと寄ったりもしていた。でも最近はまっすぐ帰る。余計なことを考えずにすむように、なるべく立ち止まらないようにしているのかもしれない。家に帰っても何も変わらないのに、どうしてこんなに急いでいるのか。自分でもわからない。ただ、寄り道しても得られるものがないことだけは、よくわかってしまっている。

同業の人にさえ言えない「寂しさ」

同じような仕事をしている人と話しても、「寂しい」とはなかなか言えない。みんな頑張ってるし、忙しいのも同じ。でもだからこそ、誰にも打ち明けられない。心のどこかで「こんな弱音を吐く自分はだめだ」と思ってしまうから。けれど、本音を飲み込んでばかりいると、その苦しさは積もっていくばかりだ。

「忙しそうですね」の裏にある沈黙

挨拶代わりに「お忙しそうですね」と言われるたび、返答に困る。確かに仕事はある。けれど、忙しさの中身は“人との繋がり”ではなく、“作業”ばかりだ。誰かと話しているわけでもなく、感謝の言葉をもらえることも少ない。効率的で、孤独な仕事。それが司法書士という職業の裏の顔だ。

愚痴を言える相手がいない苦しさ

飲みに誘える友人も少なくなった。昔の仲間は家族ができて、仕事も違う。愚痴を言ったところで「それは大変だね」としか返ってこない。深く理解してもらいたいわけじゃない。ただ、「ああ、わかるよ」とひとこと言ってくれる人がいたら、それだけで救われるのに。

飲み会の誘いも、どこか面倒になってしまう

誰かに誘われたとしても、気を使うのがしんどくて断ってしまう。楽しい時間を過ごす余裕が、自分にはもうないのかもしれない。笑って過ごせたらそれでいいのに、なぜかいつも「帰りたい」と思ってしまう。そんな自分に気づくと、さらに孤独を実感する。

なぜこんなに孤独なのか、考えてみた

気づけば40代も後半に差しかかり、周りは家庭を持ち、子育てに追われている。そんな中、自分は何をしてきたのか、とふと我に返る。仕事にすべてを注ぎ込んできた結果が今だとしたら、それはそれで何か足りない気がしてしまう。寂しさは、自分自身の選択の積み重ねが招いた結果なのだろう。

仕事中心の毎日が生んだ「副作用」

この仕事をしていると、時間の使い方がどんどん偏っていく。土日も登記の準備や顧客対応。そうやって数年が過ぎると、プライベートという感覚そのものがなくなっていく。効率は良くなるけど、心はどんどん削れていく。気づいたときには、何を楽しみに生きているのか、わからなくなっていた。

恋愛も結婚も、気づけば遠い存在に

「いつかは」と思っていた恋愛や結婚。けれど、そんなタイミングは一度も訪れなかった。自分から動かなかったのが原因だとはわかっている。それでも、今さら誰かと暮らすことを想像できない。寂しさを言葉にする相手がいないことより、寂しさを抱えている自分を受け入れてくれる人がいないことのほうが辛い。

それでもこの仕事を辞めない理由

どれだけ孤独であっても、やっぱり司法書士の仕事には誇りがある。人の人生に深く関わる責任の重い仕事。感謝されることが少ない分、たまに「ありがとう」と言われるだけで、涙が出そうになることもある。辞めようと思ったことは何度もあるけれど、やっぱりこの場所に戻ってくる。

感謝の言葉が心に刺さる瞬間がある

ある日、相続登記を終えた依頼者から、「あなたに頼んで本当によかった」と言われた。形式的なお礼じゃない、心からの言葉だった。その瞬間、ここ数日の疲れがふっと軽くなった気がした。こんな一言のために、また明日もがんばろうと思える。それが司法書士という仕事の魔力かもしれない。

誰かの人生に関われたという小さな誇り

土地や家、会社や相続。どれも人の人生と密接につながっている。それをきちんと形にすることができたとき、自分にも役割があるんだと思える。誰かの人生の転機に、陰ながら立ち会えているという事実。それだけでも、存在価値はあるんだと感じさせてくれる。

自分なりの「寂しさ」との付き合い方

寂しさを完全に消すことはできない。けれど、上手に共存することはできるはずだ。自分はそれを“ルーティン”という形でコントロールしている。毎朝のルーティン、帰宅後の小さな儀式。それだけでも心が安定する瞬間がある。寂しさを無理に打ち消そうとしないことが、案外コツかもしれない。

趣味もない。けれど“ルール”はある

趣味と呼べるものはほとんどない。ただ、毎朝事務所に着いたら一杯の温かいお茶を淹れるようにしている。それだけで「今日も始まる」と思えるし、少しだけ心が整う。形式的でも、繰り返すことで自分の中の軸になる。孤独だからこそ、習慣が必要になるのだ。

毎日同じ時間にお茶を飲むこと

お茶の香りが、事務所に漂う。それだけでどこかホッとする。事務所という無機質な空間に、少しだけ人間らしさが戻ってくる。この時間だけは誰にも邪魔されないし、誰とも比べない。自分だけの時間だ。たったそれだけで、今日を乗り越える糸口になる。

誰にも言わずに書きためるノート

ノートに愚痴を書く習慣がある。誰にも見せない。読み返すこともほとんどない。でも、書くだけで気持ちが軽くなる。言葉にすることで、自分の感情に気づけるようになった。孤独と向き合うのは辛いけれど、書くことで少しだけ整理できる気がしている。

同じような思いを抱えているあなたへ

この記事を読んでいるあなたが、もし少しでも似た気持ちを抱えているなら、「自分だけじゃない」と思ってほしい。声には出さなくても、誰かが同じように感じている。その事実だけで、ほんの少し救われる。私も、あなたも、頑張っている。それだけで十分だ。

“寂しさ”は、誰かとの共感で少しだけ軽くなる

共感は、魔法じゃない。でも、確実に心を軽くしてくれる。話す相手がいないときは、こうして書くことで誰かとつながる。それで十分なときもある。たとえ一方通行でも、思いを外に出すことで、自分がここにいることを確認できる。

話せなくても、わかってくれる人はいる

話す勇気がない日もある。でも、わかってくれる人は、きっといる。同じような経験をした人、今まさに苦しんでいる人。みんな心のどこかでつながっている。だから、今は話せなくても大丈夫。思いは、言葉にしなくても伝わることがある。

寂しさの中にあった、ほんの少しの救い

ある日、コンビニのレジで「お疲れさまです」と言われた。その一言が、やけに沁みた。たったそれだけなのに、涙が出そうになった。誰かに認めてもらえることって、こんなにも嬉しいんだと思った。だから今日も、また少しだけ頑張れる。

コンビニの店員さんの「おつかれさま」

毎晩立ち寄るコンビニで、いつもの店員さんが言ってくれる「おつかれさまです」の声。機械的に聞こえるその言葉が、なぜかその日は違って聞こえた。疲れた心に染みて、あたたかく包まれるような気がした。そんな些細なやりとりに、救われる日もある。

小さな日常の中に見つけるぬくもり

誰かと笑い合うことだけが、ぬくもりじゃない。湯気のたつカップ、お気に入りのペン、いつものルーティン。そのどれもが、自分にとっての「ぬくもり」になっていた。寂しさと共存しながらも、小さな救いを大切にして生きていく。それが、今の自分の在り方だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。