遺産分割協議書に記された違和感
その朝、事務所に届いた封筒の中身を見て、僕は思わず眉をひそめた。相続人全員の署名と実印がそろった協議書——のはずだったが、どこか奇妙な違和感があった。名前は揃っている、印影もそれらしい、でもどうにも引っかかる。
「シンドウ先生、これ、どう見ても不自然です」とサトウさんが言った。彼女の目は鋭い。僕のような凡人では気づけなかった細部に、彼女はすでに気づいていた。
放棄したはずの長女の名
一番おかしいのは、長女・ヒロコの名前だった。彼女は生前の父親と不仲で、すでに家庭裁判所に相続放棄の申述をしているはずだった。それなのに、協議書には彼女の署名がある。
放棄した人間が協議に参加すること自体、制度上おかしい。これは司法書士として見過ごせない重大な矛盾だ。
筆跡が語る意志の欠片
念のため、僕は古い登記記録と照らし合わせて、筆跡を確認した。ヒロコの過去の申述書と並べてみると、一見似ているようで細部が違っていた。「口」の字の縦線の入り方、漢字の角度、すべてが微妙に違っている。
「これは、、、誰かが真似したものですね。雑だし、癖が浮いてる」とサトウさん。僕も頷いた。この協議書、やはり偽造されている。
朝の事務所に届いた一通の封筒
それから一週間後、また封筒が届いた。差出人不明。中には「協議書は偽物です」という走り書きの紙切れと、あるマンションの契約書のコピーが入っていた。
奇妙だったのは、匿名でありながらも内容が妙に的確だった点だった。差出人は協議書の偽造を知る人物に違いない。
無効を主張する匿名の手紙
差出人の筆跡は丁寧だった。恐らく女性。だが、筆圧の強さが中年男性を思わせる。混乱しそうになったが、そこにこそヒントがあった。たぶん、代筆か、偽装だ。
「サザエさんの波平みたいな字ね」とサトウさんがつぶやいた。うまいこと言う。波平みたいに古風で、だけどどこか人情味があった。
サトウさんの冷静な推察
「このマンション、次男のトオルさんが現に住んでるって情報があります」とサトウさんは追加の調査結果を出してきた。その契約書は、亡くなった父の名義で、数年前に取得されていた。
もし父親が亡くなる直前に取得したのなら、相続財産に該当する。しかし、それをトオルがすでに使用しているのなら、、、。
古い戸籍と新しい登記の食い違い
ここで戸籍を洗い直してみると、新たな事実が判明した。ヒロコは5年前に姓を変えていた。結婚ではなく「家裁での氏の変更」だった。これが分かりにくさの原因だった。
それに伴い、本人確認書類が旧姓のまま残っていたため、登記申請の際にも旧名で書類が作成されていたようだ。
離婚と改名の交差点
離婚後、元の姓に戻らず「第三の姓」を選んだヒロコ。こうしたケースは稀だが、制度上可能だ。トオルはそのことを逆手に取り、ヒロコ本人でない誰かを“ヒロコ”として協議書に登場させた。
やれやれ、、、こういう法の裏をかくようなことばかりやるから仕事が増えるんだよ。しかも、僕に回ってくる。
真の相続人は誰か
協議書の有効性が揺らぐ中で、相続人全員の確認が必要になった。特に、所在不明の三男・ユウジが鍵を握ると見て、僕らは戸籍の附票を手がかりに捜索を開始した。
そして、彼の住民票が千葉県に残っていたことが分かり、現地の司法書士に協力を仰いだ。
遺言書の裏に残されたメモ
その頃、被相続人の遺言書の裏に、謎のメモが見つかった。「次男に騙されるな」「財産は3人で等分すべし」。まるで死の直前に書かれたかのような文字だった。
この言葉の信憑性を問うために、筆跡鑑定を依頼することにした。結果は「本人の筆跡と一致する可能性が高い」というものだった。
消えかけた走り書きの謎
メモはボールペンではなく、消えかけた鉛筆で書かれていた。それがまた、生々しさを強めていた。急いで書かれたメモには、確かに彼の意思が残っていた。
「これは遺志です。遺言書の補足的効力として扱える可能性があります」と僕はつぶやいた。
司法書士が見落とさない一行
補足的効力。民法的には曖昧だが、司法実務では重要な手がかりになる。「協議書より前に書かれていた可能性」が示されれば、全てが覆る。
僕は一行の時系列に注目した。日付。インクの劣化具合。紙質。すべてが「こちらが先」と示していた。
本人確認書類の落とし穴
問題の協議書に添付された本人確認書類。ここにも見逃せない違和感があった。免許証の住所が現在と異なっていた。ヒロコは引っ越していないはずなのに。
「この住所、よく見るとトオルさんの住所ですね」とサトウさんが鋭く指摘した。
偽名の影に潜む次男の思惑
つまり、ヒロコの免許証は偽造されたか、もしくはヒロコの旧住所情報を悪用したものだった。これでトオルの関与は確実だ。
動機は明白。遺産を独り占めにするため。そして手段は、、、放棄という“偽りの選択”を周囲に強制することだった。
カルテの漢字ミスが照らす真実
さらに、ヒロコの病院のカルテにあった「廣子」の表記。協議書では「広子」と書かれていた。これは本人でなければ見逃さない漢字違い。法的には無効の根拠になりうる。
これで決定打を得た。あとは調停で説明すればいい。
最後の相続人が選んだ本当の放棄
数ヶ月後、家庭裁判所で協議書は無効とされ、遺産は法定相続に従って分配されることになった。トオルは罪に問われ、ヒロコはようやく真実を語った。
「私は放棄なんて、してない。ただ、連絡を断ってただけ」と彼女は淡々と語った。彼女の選択は“沈黙”だったのだ。
真相は司法書士の机の上に
事件が終わった後、僕は静かな事務所でコーヒーを啜った。サトウさんはすでに次の案件の資料を並べている。
「シンドウ先生、さっさと次いきますよ」塩対応は健在だ。僕は肩をすくめた。「やれやれ、、、またか」