静かすぎる部屋がつらい夜に思うこと

静かすぎる部屋がつらい夜に思うこと

司法書士事務所の静けさは孤独と紙一重

毎日、机に向かって書類を整え、電話が鳴らない時間に目を落とすと、自分が今どこにいるのかすらわからなくなるときがある。司法書士という職業は、黙々と進める作業が多い。騒がしい事務所というのはあまり想像できないけれど、それにしても「静かすぎる」と感じる瞬間がある。音がなさすぎる部屋にいると、仕事に集中するどころか、むしろ頭の中の不安が拡張していくような感覚になる。紙がこすれる音すら気になって、自分の存在が浮いている気がしてならない。

静かであることが効率的とは限らない

「静かな職場=仕事がはかどる」というのは、世間一般のイメージかもしれない。でも実際は、静かすぎる環境が人を蝕むこともある。たとえば、朝から夕方まで誰とも会話しない日があったとしよう。その日、私は書類を4件分処理したが、達成感はまるでなかった。むしろ虚無感に包まれていた。これは、元野球部の私にとっては特につらい。常に声を出し合い、仲間と鼓舞し合ってきた時間を経験してきた人間にとって、無音は罰のようにすら感じるのだ。

事務員のタイピング音だけが唯一の証

静まり返った事務所の中で、唯一の生活音が事務員のタイピング音という日は少なくない。カタカタという音が、妙に響く。たったそれだけの音に救われる一方で、それしかないことに気が滅入る。私も同じようにキーボードを叩いてはいるが、ひとりで仕事を回している感覚が強くなってくると、「このままでいいのか」と疑問が顔を出す。誰にも相談できず、ひとりで責任を背負っているような孤独に、耳まで敏感になってしまう。

ラジオをつける勇気も出ないときがある

この静けさをどうにかしたくて、ラジオを流そうかと迷う日もある。でも「こんなに静かな空間で音を出すこと」が、なぜかすごくハードルが高く感じるのだ。BGMひとつで空気が壊れてしまいそうで、結局ラジオのスイッチに手が伸びない。誰かが来てくれるなら気が紛れる。でも、今日もまた来客はゼロ。そんな日は、音を流すことすら怖くなる。

なぜか音に敏感になる午後三時の魔

午後三時を過ぎると、なぜか決まって音に対して神経質になる。誰かが歩く音、外の車の音、そして自分の呼吸の音すら意識してしまうことがある。この時間帯は、ちょうど昼の喧騒も落ち着き、夕方の波もまだ来ない空白の時間だ。特に依頼もなく、事務員も外出中のときなど、自分しかいない空間がいよいよ「無音の檻」に感じられる。この沈黙が、逆に精神を削っていくような気がしてならない。

お客さんのいない午後は不安が募る

午後の時間に予定がないと、少しホッとする反面、収入の不安が押し寄せてくる。「今日も予約ゼロか…」そんな日が続くと、やはり経営者として不安になる。静かさが「平穏」ではなく「停滞」に感じてしまう。誰からも連絡がない、訪問もない。それは、必要とされていないのではという錯覚を生みやすい。静けさが、自信を削るのだ。

事務所が静かすぎると自分の足音がうるさい

室内を少し歩いただけで、フローリングに響く自分の足音がうるさく感じることがある。まるで「今、自分だけがこの空間に存在している」と突きつけられているようで、そっと歩くのにも神経を使うようになる。この感覚は、ちょっとしたホラーのようだ。誰もいない、何も聞こえない、だけど不安だけが増幅されていく。

静寂の中で過去の失敗が蘇るという不思議

静けさの中にいると、なぜか昔の失敗が思い出される。登記申請で書類の順番を間違えたとき、依頼者の名前を誤って読み上げたとき、そういう記憶がふとよみがえる。まるで静けさが「反省会」を始めさせるかのようだ。普段は忘れているような小さなミスまで、音のない世界では大きく感じてしまう。

元野球部としての反動かもしれない

自分がなぜこんなにも「音のない環境」に弱いのか。最近ようやく思い当たった。たぶんそれは、野球部時代の名残だ。常に声を出していたし、ベンチの中では騒がしいくらいだった。応援の声、監督の怒鳴り声、仲間のガヤ。その中で生きていた時間が、今の私にとっての「普通」だったのかもしれない。だから今のように、シンと静まり返った空間にひとりでいると、自分がどこにいるのかさえ曖昧になるのだ。

いつも誰かが声を出していた青春

高校時代、練習中は常に誰かが声を出していた。「ナイスボール!」「いけるぞ!」という掛け声が、自然と耳に馴染んでいた。沈黙は緊張を意味していた。だから今も、静けさに耐えるのが苦手なのだ。声がない=異常という感覚が、どこか染み付いている。司法書士になって15年以上経つのに、まだこの癖は抜けない。

今は応援歌も歓声もない

今の事務所には、応援歌も歓声もない。鳴るのは電話の呼び出し音と、たまのプリンター音だけ。静かで落ち着いた職場と言えば聞こえはいいが、心の奥には「誰も応援してくれていない」という寂しさが居座っている。人間、いくつになっても応援が欲しいのかもしれない。

静かな部屋でバットを握りたくなる衝動

あまりに静かすぎて、たまに昔のバットを握りたくなる日がある。何かを振り抜いて、音を出したくなる衝動。それくらい、静寂がしんどい。静かであってほしいのに、静かすぎるのはつらい。この矛盾に、今日もまた悶々としている。

静かすぎるから気づけたこともある

だけど、そんな静寂にも意味があるのかもしれない。音がないからこそ、自分の心の動きや不安に気づけるようになった。人と接していると気づけないことが、音のない空間では浮き彫りになる。孤独な時間が、自分を見つめ直すチャンスになることもあるのだ。

耳を澄ませば気持ちのざわつきがわかる

静かすぎる空間で、不安がざわつくのは悪いことではない。それに気づけること自体が、自分の内面と向き合っている証拠だ。無理に音で埋める必要はないのかもしれない。ただ、たまには誰かと笑い合いたい。そんな気持ちも、静けさが教えてくれる。

自分にしか聞こえない心のノイズ

頭の中で繰り返す「これでいいのか?」という問い。そのノイズは、他人には聞こえない。でもそれがあるからこそ、自分の仕事に対する姿勢を問い直すことができる。静かな部屋で、自分にしか聞こえない音に耳を澄ませる。それも、司法書士という仕事の一部なのだろう。

でもそれもまた、進む力になると信じたい

結局、静かすぎる部屋がつらいと感じるのも、生きている証だと思う。感覚が鈍っていないから、寂しさにも気づける。だから今日もまた、無音の空間で一歩を踏み出す。いつかこの静けさが、自分を強くしてくれると信じながら。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。