赤ワインと午後の来訪者
午後三時、少し早めの秋風が事務所のブラインドを揺らした。インターホンが鳴ると同時に、どこか気怠そうな男が入ってきた。ジャケットの袖から覗いたワイシャツには、うっすらと赤い染みが見えた。
「すみません、調停関係で相談がありまして」と彼は言ったが、その目はどこか宙を見ていた。まるで、何かを隠すことに慣れているようだった。
机に封筒を置くと、彼は深いため息をついた。それが赤ワインの香りを含んでいたことに気づいたのは、ずいぶん後のことだった。
調停室に残された香り
「この調停調書、なにか変です」サトウさんが言ったのは、帰り際だった。書面にかすかに残る、ぶどう酒のような甘ったるい香り。
「ワインの香りがする調書なんて初めてです」と彼女はファイルを差し出す。見ると、紙の端がほんのわずかに波打っている。
香水でも香りづけでもない、これは――液体による染みだった。しかも、まるで意図的に付着させたような位置に。
依頼人の不自然な沈黙
翌日、依頼人に再度話を聞こうとしたが、電話にも出ず、事務所も留守だった。シンドウは役場に行き、調停記録の閲覧を申請した。
「本調書は写しで、原本は家庭裁判所に」と係員が答える。写しと原本で何が違うのか、確認する必要があった。
「やれやれ、、、また役所のたらい回しか」とつぶやきながら、彼は手帳に裁判所の番号を書き留めた。
サトウさんの直感
「この文章、フォントが一部だけ違うんですよ」サトウさんがPC画面を覗き込みながら言った。調停調書の一節だけ、微妙にフォントサイズが小さい。
「それって、書き換えの痕跡ってことか?」と尋ねると、彼女は軽くうなずいた。「プリンタによる差異なら全体がブレます。これは狙ってる」
まるで、名探偵コナンのような切れ味。サトウさんの推理は、いつだって的を射ている。
記録に残らない発言
シンドウは調停に立ち会った弁護士に電話した。「あの場で、依頼人が不動産について何か言ってませんでしたか?」
「ああ、確か“兄が勝手に登記を変えた”と漏らしてましたね」との返答。それは調書には記載されていなかった。
調停記録に残らない発言。つまり、あえて省かれたということか。そこに事件の核心があるのでは――。
書面に紛れた細工
事務所に戻り、封筒に入っていた調書の写しを再度確認する。確かに、日付の一部が他と微妙に色調が異なる。
「印刷を重ねてる?」とシンドウが言うと、サトウさんがスキャナにかけ、解析を始めた。「ここ、スキャニングした上に貼り付けられてます」
ワインの香りは、その貼り直しのときに使った湿布剤の香りと混ざっていた可能性があった。
司法書士シンドウの一手
シンドウは旧い登記簿を調べ始めた。「やっぱり……」とつぶやく。数年前に一度だけ、今回と同じ物件が別の名義で登記されていた記録があった。
その後、現在の名義人が再登記しているが、日付が不自然に近すぎる。おそらく、相続登記をめぐって不正があった。
「これは、調停調書で覆い隠したかったな」とサトウさんが皮肉をこぼす。赤ワインで濁した調書、その狙いは登記の誤魔化しだった。
赤ワインのラベルと名前
さらに、依頼人が持参していたジャケットの染みをクリーニング店で分析してもらったところ、地元産の赤ワインの成分と一致した。
そのワインは、調停の日に同席していた「兄」が経営する酒屋でしか取り扱っていない特注品だった。
つまり、香りの主は兄。そして偽調書も、兄の工作によるもの。すべての点が繋がった。
過去の調停との符合
裁判所から取り寄せた調停の原本には、明確に「登記名義について相続人全員が合意」と記されていた。
しかし、依頼人の写しにはその文言がなかった。誰かが写しを改ざんし、兄に有利な形で再提出していたのだ。
調停が終わった後に提出された登記申請書は、その改ざん写しを元に作成されていた。
暴かれる真実
兄は呼び出された司法書士会で沈黙を保ったまま、サインを拒否した。調停調書の原本と写しの違いを突きつけられ、言葉を失った。
「どうせ誰も見ないと思ってた」とぼそりと漏らす。小細工のつもりだったのだろうが、それは書面の匂いから露見した。
ワインの香りという、あまりに人間的なミスだった。
調停調書に書かれなかった事実
依頼人は兄を信じていたが、あの日の調停で何も言えなかった。まるでサザエさんのカツオのように、いつも叱られる側だったのだ。
しかし今回は、正義の波平ではなく、ただのずるいマスオさんが相手だった。シンドウはその構図を理解した。
「真実は調書に書かれないこともある」と、彼は思わず漏らした。
サトウさんの冷静な指摘
「情より記録ですよ、司法の現場では」サトウさんは冷たく言った。しかし、それは正論だった。
「やれやれ、、、記録に心は宿らないってわけか」シンドウは苦笑する。「けど、香りは残るんだな」
机の上に残された調書の写し。もう香りは消えていたが、そこには確かに記録されなかった何かがあった。
終わりと始まりの書面
最終的に、再調停が行われ、正しい内容の調書が作成された。登記も正しく修正された。
兄には軽微な詐欺未遂の疑いがかけられたが、不起訴処分となった。その代わり、家族との関係は完全に壊れた。
「紙の重みってのは、後から来るもんなんですね」と依頼人が言ったとき、シンドウは黙ってうなずいた。
依頼人が遺したもう一通の手紙
事務所に届いた封書には、手書きの礼状とともに、小さな赤ワインの試飲チケットが入っていた。
「今度は兄抜きで、ゆっくり飲めそうです」その文面に、ようやく依頼人の素顔が見えた気がした。
シンドウは苦笑しながらチケットを机の引き出しにしまった。たぶん、使う日は来ない。それでも、それでよかった。
シンドウのぼやきと結末
「やれやれ、、、こんな形でワインに関わるとはな」独身の司法書士の机に、赤ワインの香りはもう残っていない。
ただ、事件の余韻だけが、いつまでも彼の事務所に漂っていた。サトウさんが紅茶を淹れに立つと、秋風がまたブラインドを揺らした。
静かな午後の、その先に、また新しい依頼が待っているのだった。