感情をしまい込む癖ができたのはいつからか
誰かに気軽に感情をぶつけるなんて、いつからできなくなったんだろう。学生時代、野球部では失敗すれば怒鳴られ、理不尽だと怒鳴り返すこともあった。泣いたり笑ったり、感情をそのまま表に出せていた気がする。だけど司法書士として開業し、責任を背負うようになってからは、いつしか「感情を出すのは未熟」という意識がこびりついた。今では、たとえ理不尽なことが起きても、黙ってやり過ごすクセが染みついてしまったのだ。
司法書士という職業の「冷静さ」の罠
司法書士は、感情を押し殺すことが「プロ」だとされている。依頼者が怒っていても、理不尽な要求をしてきても、こちらが冷静であることが求められる。たとえ心の中でイライラしていても、それを出すわけにはいかない。逆に言えば、怒りや悲しみといった自然な感情を出す場面が仕事中にはまったくない。冷静であることに慣れすぎると、感情そのものの存在を忘れてしまいそうになる。心の奥に何かが沈殿していくのを感じても、それを表に出す勇気が持てなくなるのだ。
怒りも悲しみもスルーされる日常
たとえば、登記の申請をギリギリに依頼してきたお客さんに、「これは間に合いません」と正直に伝えたとき。感謝どころか不満をぶつけられた。こちらが怒りを感じたとしても、それを伝えれば関係がこじれる。結果的に、「すみませんね」と笑ってやり過ごす。でも内心は煮えくり返っている。こうした場面が1日数件ある。悲しいかな、それが仕事というもので、「仕方ない」で飲み込むしかない。この繰り返しが、心の奥に静かなフラストレーションを積もらせていく。
職場に発散できる相手がいないという現実
うちの事務所は、僕と事務員さんの二人だけ。小さな空間にふたりきりで、しかも僕が雇い主という立場だから、なかなか本音で弱音や怒りを吐ける雰囲気ではない。冗談を言い合える関係ではあるけれど、それでも「今日は本当に無理だった」と弱音を言ったところで、「そうなんですか」と軽く返されて終わることが多い。愚痴や感情の共有ができない職場というのは、想像以上に孤独だ。
一人事務所の閉じた空間
窓から見えるのは駐車場と隣の民家の壁だけ。電話が鳴らない時間帯は、時が止まったような静けさが事務所を包む。その中で黙々と書類を作成し、スケジュールを確認し、メールを返す。誰とも言葉を交わさず数時間過ごすこともある。外から見れば「自分のペースで働けて羨ましい」と言われるが、実際は、自分の感情とずっと向き合わざるを得ない苦行のような時間だ。
余計な一言が関係を壊すという恐怖
事務員さんに対しても、気を使ってばかりだ。小さなミスに対して注意したいと思っても、「きつく言ったら辞めてしまうかも」と考えてしまう。結局、気づかないふりをして自分でフォローする。自分の感情を伝えることで、関係性が壊れてしまうのが怖い。そんなことになったら、また一人になる。そう思うと、結局言葉を飲み込む。そしてまた、ストレスは積もっていく。
誰かに話すより自分の中で飲み込む方が楽?
何度か、友人に仕事の愚痴を話そうと思ったことがある。でも、どうしても気が引けてしまう。「士業って楽そうでいいよな」と言われた過去があるからだ。話しても分かってもらえないなら、黙っていた方が楽。そう思ってしまうと、ますます心を閉じてしまう。「話すことで軽くなる」とはよく言うけれど、話せる相手がいない現実の前では、その言葉はむなしく響くだけだ。
同業者との距離感とその壁
司法書士同士の集まりは定期的にある。でも、そこで本音を言えるかといえばそうでもない。表面的には和やかでも、内心はお互いの業績や評価を気にしている。弱音を吐くと「やばい人」と思われるかもしれない。そういう空気があるから、結局は笑ってうなずくだけで、自分の本当の感情にはフタをする。
「愚痴は見せない」空気がある司法書士界隈
同期の司法書士たちと話していても、「最近どう?」の問いには、「まあまあだね」「忙しくてさ」といったテンプレートな返しばかり。本当は「疲れて限界」「やめたいくらいしんどい」と思っている人もいるはず。でも、誰もそれを口にしない。愚痴をこぼすことが弱さの象徴になってしまうこの業界の空気が、さらに孤独感を深めるのだ。
士業同士の集まりでは本音は言いづらい
集まりの場では、士業としての自分を演じることに徹してしまう。多少無理をしてでも「余裕のある自分」を見せようとしてしまう。結果的に、誰とも本音のやりとりはできず、帰り道の車の中でどっと疲れが押し寄せてくる。本来、同業者は一番分かり合える存在のはずなのに、その期待が裏切られるたびに、ますます心を閉ざす自分がいる。
マウント合戦になる前に黙ってしまう
「今年は何件くらい受けた?」「補助者は何人?」なんて、さりげない質問が始まると、もう面倒くさい。自慢話が始まる前に、そっと話題を変えるか、自分が黙る。張り合うつもりもないし、張り合える状況でもない。そんな中で本音を話す気になれるはずがない。自分を守るために、感情も引っ込めてしまう。
飲み会もどこか上滑りな会話ばかり
飲みの席でも、「最近、何か変わったことある?」と聞かれ、「特にないね」と笑ってごまかす自分がいる。笑っているけど、心の中ではいろいろ渦巻いている。愚痴を言う場としての飲み会ではなく、表面上の付き合いの場になっているのが現実だ。誰かが本気で悩みを語っても、酒の席の冗談として流される。それがさらに虚しくなる。
それでも前に進むためにできること
感情をぶつけることができないなら、せめて表に出す手段を持ちたい。僕にとってそれは、こうして文章を書くことかもしれない。誰にも見られなくてもいい、自分の中にある声を外に出すだけで、ほんの少し楽になる。感情を誰かにぶつけるのではなく、共有できる形に変えることが、自分を壊さずに生きていくための手段になるのかもしれない。
自分のためだけの「声に出せる場所」を作る
最近は、ひとりで山道を歩く時間を作るようになった。誰にも会わない場所で、思い切り声を出してみる。「ふざけんな!」と叫ぶと、驚くほどスッキリする。人にぶつけるのではなく、自分の外に吐き出す場所を持つ。それだけで、感情の渋滞が少し緩和される気がする。無理に我慢せず、でも誰も傷つけない。そんな方法が、あってもいいと思う。
感情を誰かにぶつけるのではなく共有する
この文章を読んでくれている誰かが、少しでも「わかる」と思ってくれたなら、それで十分だ。感情を共有することは、傷つけることではない。むしろ、それが生きる糧になることもある。同じような立場にいる人たちと、たとえ顔を知らなくても、どこかでつながれる。そんな思いが、僕の孤独を少し和らげてくれる。
ブログや日記で自分を見つめ直す
文章にすることで、自分が何に怒っているのか、何に悲しんでいるのかが少し見えてくる。言葉にしないと、感情はいつまでも曖昧なまま。書くことで整理され、距離ができる。それが「乗り越える」一歩になる。誰にもぶつけられないなら、自分のために書けばいい。そう思えるようになってきた。
愚痴こそが生きている証と思えるように
愚痴が多いのは、それだけ真剣に仕事に向き合っているから。そう思うようになった。感情を持て余すのは、感情がある証拠。無感情になるより、ずっといい。誰にもぶつけられない日々は苦しいけれど、それでも感情を持ち続けている自分を誇りに思いたい。愚痴も孤独も、今の自分の一部。そう受け入れて、また明日も仕事を続けていこうと思う。