夕日を見ながらため息をつく癖が直らない

夕日を見ながらため息をつく癖が直らない

夕方になると心がざわつく理由

一日の業務がようやく落ち着いて、パソコンを閉じるころ。ふと窓の外を見ると、夕日が町をオレンジ色に染めている。そんなとき、決まって僕はため息をつく。特に大きな失敗をしたわけでも、誰かに責められたわけでもないのに、深く長いため息が自然とこぼれる。この習慣はいつから始まったんだろうか。思い返せば、独立してすぐの頃からだったかもしれない。今日もなんとかやり切ったという安堵と、また明日も似たような日々が続くという小さな絶望。その間で揺れながら、僕は夕日に向かって無意識に息を吐いている。

毎日同じ時間にやってくるモヤモヤ

午後5時過ぎ、書類の山にようやく区切りがついた頃。椅子に深く座り直して、ふと時計を見ると「またこの時間か」と思う。そして決まって胸のあたりに、うまく言葉にならないモヤモヤが漂ってくる。登記完了報告の電話も終え、事務員さんはもう帰宅の支度を始めている。そこには平和な日常が流れているはずなのに、なぜか心だけが取り残されたような感覚になる。もしかしたら、こうして毎日同じことを繰り返していることが、僕の中に焦りや虚しさを積み重ねているのかもしれない。

誰にも言えない疲れがたまっていく

「最近どう?」と聞かれても、誰にどう答えていいのかわからない。順調だと言えば嘘になるし、大変だと言えば言い訳のようで気が引ける。そんな日々の中で、誰にも言えない疲れがじわじわと体にたまっていく。寝ても取れないだるさ、休日に感じる空虚感、食欲のない日もある。愚痴をこぼす相手もいないまま、夕方の静かな時間がその疲れを浮き彫りにする。だからなのか、夕日を見ると反射的にため息が出てしまうのだろう。決してドラマチックではないけれど、確かにそこにはひとりの人間の弱さがある。

日報を書き終えたあとに訪れる空白

毎日のルーティンのひとつである日報。今日やった業務、完了した案件、明日の予定。淡々と箇条書きしているうちはまだ気が紛れている。しかし書き終えた瞬間、ふっと空気が変わる。急に静けさが押し寄せて、やることのない時間が広がる。その空白に、いろんな感情が滑り込んでくるのだ。もっと頑張れたんじゃないか、なんでこんなに余裕がないのか、将来はどうなるんだろうか。そんなことを思っているうちに、また深いため息がこぼれてしまう。この癖は、ある意味で僕の気持ちの整理の儀式なのかもしれない。

ため息という名のルーティン

毎日の終わりにため息をつくのは、ただの疲れだけが理由じゃない。あの一呼吸には、自分でも気づいていない想いや迷い、時には小さな後悔まで詰まっている。ため息を「ネガティブな癖」として片づけることもできるけれど、僕にとっては自分を支えるための一種の呼吸法なのかもしれない。だからこそ、無意識にでも繰り返してしまうのだろう。そして今日もまた、夕日に照らされながら「はあ」と静かに息を漏らす。その瞬間だけは、自分の存在を確かめている気がする。

無意識に繰り返す癖が教えてくれること

人間って意外と自分の感情には鈍感だ。特に日々の仕事に追われていると、気持ちの変化に鈍くなる。だからこそ、無意識の行動にこそ本音が出るのかもしれない。ため息もそのひとつで、「なんだかしんどいな」「今日も終わっちゃったな」といった気持ちが、言葉になる前に呼吸として漏れている。振り返ってみると、ため息の深さや頻度で自分の調子がわかることもある。つまり、この癖は案外、僕のメンタルのバロメーターとして機能しているのだ。

ため息の回数が増える日は要注意

自分では気づいていなくても、ため息が多い日は大抵ろくなことがない。お客さんとのやりとりでうまくいかなかったとか、書類がスムーズに進まなかったとか、目に見えるストレスの裏に、見えない負担がのしかかっている。そんな日は、つい他人の一言にも過敏になったり、自分を責めたりしがちだ。ため息が増えるということは、心が「もう少し余裕がほしい」と訴えているサイン。無理を重ねると、本当に動けなくなる日が来る。自分の心の声を、呼吸から感じ取ることも大事だと最近ようやく思えるようになった。

心が限界を知らせるサイン

「頑張りすぎてない?」と誰かに聞かれたことがある。でも、その問いに「はい」と素直に答えられたことはなかった。気がつけば、限界ギリギリの状態で日々をこなしている。忙しさを理由に、自分の心の声を無視してしまっていたのかもしれない。だから、ため息はそんな僕の代弁者なのかもしれない。口に出せないことを、代わりに呼吸で伝えてくれている。深いため息の先にあるのは、休息の必要性や、見直すべき働き方のヒントかもしれない。

独り身の気楽さと虚しさのはざまで

独身でいることは、自由で気楽な反面、ふとした瞬間に孤独を感じる。仕事に没頭できるのはありがたいが、ふと立ち止まると、隣に誰もいないことに気づいてしまう。夕焼けの時間は、そういう虚しさを思い出させる。誰かと語り合うこともなく、一人で考え、一人で決め、一人でため息をつく。司法書士という仕事柄、人の人生の節目に立ち会うことも多いけれど、自分自身の節目が曖昧なまま時間だけが過ぎていく。

夕飯をコンビニで済ませる日常

今日もまた、帰り道にコンビニに寄って晩ごはんを選ぶ。弁当を手に取りながら、「これ、昨日も食べたな」と気づくことがある。でも特に変えようという気も起きない。調理の手間もないし、誰かに合わせる必要もない。そんな日常に慣れてしまった自分が少し怖くなる。事務員さんには「ちゃんと食べてくださいね」と言われるが、その優しさすら、今は少し胸に刺さる。コンビニの明かりの下で、また小さくため息が出る。

誰かと食べるご飯が恋しいとは言えない

「一人で気楽でいいですね」と言われることもある。でも本当は、誰かと何気なく並んで食べるご飯が恋しい。忙しい日々の中で、誰かと共有する時間の尊さに気づいた。だがそれを誰かに伝えるのは照れくさいし、そんな相手もいない。だから今日も一人で食べて、一人で片づけて、静かな部屋でまた息をつく。「もう慣れたよ」と自分に言い聞かせながら、本音はずっと置き去りのままだ。

事務員の気遣いが逆に沁みる

たった一人の事務員さんがいてくれるだけでも、僕の事務所は本当に救われている。「今日はお疲れですね」とか、「あったかい飲み物いれましょうか?」とか、その一言がどれだけありがたいか。でも、そんな気遣いをもらうと、逆に泣きたくなることもある。優しさに慣れていないからかもしれない。誰かに頼ることが苦手な自分が、そこに映し出されているような気がして、言葉を失ってしまう。

それでも続ける司法書士の仕事

たとえどんなにため息が増えても、この仕事を嫌いになれない理由がある。誰かの役に立てたとき、小さな「ありがとう」がもらえたとき、それだけで救われた気持ちになる。ひとりで抱え込むことが多くても、同じように頑張っている仲間や、今日もどこかで登記を必要としている人がいる。そのことが、僕の背中を押してくれる。ため息の先にも、続ける理由はちゃんとあるのだ。

愚痴をこぼしながらでも前に進む

「また愚痴っちゃったな」と思いながらも、翌日には机に向かっている。完璧じゃなくてもいい、弱音を吐いたっていい。そう思えるようになってから、少しだけ楽になった。ため息は減らなくても、意味のあるため息になった気がする。誰かに届かなくても、自分のために吐く言葉があってもいい。今日もまた一歩、明日もまた一歩。それでいいのだと思えるようになった自分が、少し誇らしい。

ため息の数だけ頑張ってきた証

若いころの自分は、ため息なんて弱い人間がするものだと思っていた。でも、今は違う。ため息の数は、これまで乗り越えてきた日々の数。無理をした数、耐えた数、諦めなかった数。そう思えるようになっただけでも、僕は少し成長できたのかもしれない。誰かと比べず、自分のペースで歩いていく。それが今の僕の流儀だ。

自分の弱さを受け入れて続ける選択

司法書士という仕事は、堅実で地味だ。でもその中には、確かな責任と信頼がある。自分の弱さを隠すより、認めて付き合っていくことのほうが、よほど勇気がいる。ため息ひとつにも、そんな気持ちが込められているのかもしれない。これからもきっと、夕日を見ながらため息をつくだろう。でも、それでいい。自分を受け入れながら、また明日を迎える。それが今の僕の生き方だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。