愚痴を聞いてくれる誰かが欲しい

愚痴を聞いてくれる誰かが欲しい

どうしてこんなに話し相手がいないのか

朝、事務所のドアを開けてから、夜に閉めるまで、誰ともちゃんと会話しない日がある。もちろん電話やメールのやりとりはあるけれど、それは「業務」であって「会話」じゃない。ふと「今日、一言も笑ってないな」と気づく瞬間がある。自分が透明人間みたいに感じる日だってある。こんな孤独感、昔は想像もしなかった。

一日中誰とも会話しないこともある

事務所にこもって登記申請の書類を作っていると、本当に一言も声を出さないまま夕方になることがある。近くにコンビニはあるけど、レジの「温めますか?」に「お願いします」と答えるだけじゃ、心の隙間は埋まらない。電話も鳴らなければ、誰も来訪しなければ、僕がここにいてもいなくても誰にも気づかれない気がしてくる。

事務員さんには言えないこともある

事務員さんは気が利く人で、僕が黙っていても空気を読んでくれる。でも、だからこそ逆に愚痴を言えない。事務所の空気を悪くしたくないし、そもそも僕が上司だ。上司がしょんぼりしてたら現場の士気が下がる。だから「いやー今日も疲れたよ」すら言えない日が多い。いつもニコニコしてるフリに、少しずつ無理が出てくる。

愚痴をこぼす場所すらなくなってきた

昔は仲の良い友達に電話して飲みに行って、くだらない話で笑っていた。けど、今はその友達も家庭を持ち、夜は子どもと過ごすらしい。電話すら遠慮してしまう。「愚痴を言いたいけど、言える相手がいない」って、地味に精神的にきつい。心の排水口が詰まってる感じ。だからこそ、誰かにただ聞いてほしいだけなんだ。

頼られるのはうれしい でも限界もある

司法書士という仕事柄、「先生」と呼ばれ、相談されることが多い。頼られるのは嬉しい。でもそればかりが続くと、こっちが壊れていくことがある。「頼られる=常に答えを出さなきゃいけない」ではないはずなのに、自分を追い込んでしまう。誰かに「今日はダメだった」と打ち明けたい時もある。

「先生お願い」ばかりでこっちの話は聞かれない

依頼人からの「なんとかしてください」に対して、こっちも命削って対応してる。それなのに、「ありがとう」の一言もないと、こっちはどこに報われたらいいのかわからなくなる。たまには「先生、大丈夫ですか?」って聞かれたい。けど、それを求めるのは贅沢なんだろうか。

弁護士や税理士とも壁がある

同じ士業だから気持ちはわかってくれるかと思いきや、微妙な距離感がある。愚痴をこぼしたら「それは経営が悪いんですよ」と正論で返されたこともある。そうじゃない。ただ「疲れたね」って一緒に溜息ついてほしかっただけなのに。士業同士だからこそ、弱音が言いづらいのかもしれない。

感謝よりもクレームの方が多く感じてしまう日

最近は、ありがとうより「遅くないですか?」とか「もっと早くできませんか?」の方が多く感じる。もちろん全力でやっている。でも、結果が全てといわれるこの世界では、過程や努力は見えない。やるせなさと、どこにも向けられない怒りで、夜のコンビニ前で立ち尽くしてしまったことがある。

そもそも愚痴って悪いことなのか

愚痴を言うと「そんなの言ってもしょうがないよ」と返されがち。でも、本当にそうだろうか。誰かに話すことで心が整理されることもあるし、「共感してもらえた」というだけで救われることもある。愚痴は、感情のゴミ出しみたいなもので、溜め込むと悪臭を放つんだ。

我慢してると心が荒れてくる

愚痴を我慢し続けた結果、無意識に怒りっぽくなったり、笑顔が減ったりしていた。ある日、事務員さんに「最近、先生怖いです」と言われて、ハッとした。自分でも気づかないうちに、感情が外に漏れていたんだと思う。これは危ないと思った。愚痴を吐けない日々は、毒にもなり得る。

ネガティブ発言も共有できる関係が欲しい

ポジティブな話だけが正義じゃない。ネガティブな感情だって人間らしさの一部。それを笑って受け止めてくれる人がいたら、どれだけ救われるだろう。落ち込んでるときに「わかるよ」と言ってくれる存在が、今の僕には一番必要なんだと思う。

愚痴を言える=信頼できる人間関係

愚痴を言えるって、相手を信頼してる証でもある。嫌われたくない相手には、なかなか本音を言えない。だから、何も取り繕わずに、弱音をさらけ出せる関係があれば、それはもう宝物だと思う。今はまだ見つかっていないけど、いつか出会いたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。