朝の来客と一通の封筒
午前九時を少し回った頃、玄関のチャイムが鳴った。スーツのしわ一つない男が、こちらを睨むような目で立っていた。手に持つ封筒には、無造作に「至急」と赤文字が踊っていた。
「不動産の所有権移転登記をお願いしたいのですが」と男は言った。私はまだコーヒーも飲んでいない状態で、返事も曖昧なまま封筒を受け取った。やれやれ、、、朝から不穏な空気だ。
黒いスーツの男が持ち込んだ謎の依頼
封筒の中身は、売買契約書、委任状、住民票、そして印鑑証明書だった。一見、完璧に見える書類だったが、サトウさんがすぐに一枚を指差した。「この印鑑証明書、ちょっと変ですね」
私はまじまじと見直した。発行日が数か月も前で、通常の取引では使われない日付だった。
印鑑証明書の不自然な日付
通常、印鑑証明書の有効期限は三か月。古い日付のものは受け付けられない可能性が高い。だが、今回の依頼人は「司法書士がチェックすれば問題ないと思って」と言って譲らない。
いや、それ以前に問題は別にある。私の直感がそう告げていた。
サトウさんの冷静な一言
「この証明書、偽物じゃないですか?」とサトウさん。あまりにあっさり言うので、私は思わず椅子から腰を浮かせた。塩対応にもほどがあるだろうと思いつつ、もう一度証明書を透かしてみた。
確かに、発行機の透かしの位置が微妙にずれている。市役所の本物とは違っていた。
不動産取引に仕掛けられた罠
取引対象の物件は、駅から徒歩十五分の古いアパートだった。依頼人の話によれば、相続で手に入れたものらしい。しかし登記簿を見る限り、前所有者の名義がそのまま残っていた。
私は疑念を深め、さりげなく前所有者の氏名をググってみた。すると数年前に死亡していることが判明した。
名義変更の落とし穴
死亡している人の名義で売買契約が結ばれるはずがない。にもかかわらず、売買契約書は存在し、しかも印鑑証明書まで添付されている。これはまさに、、、怪盗キッドレベルの大胆さだ。
いや、実際は偽造というよりも、誰かが古い書類を使って不正を企てているのかもしれない。
法務局からの緊急連絡
午後一時、法務局から電話が入った。「そちらに提出された印鑑証明書、偽造の可能性があります」
やはり、サトウさんの見立ては正しかった。私はもう一度書類を並べて検証した。小さな違和感が次第に全体の構図を明らかにしていく。
登記官のささやかなヒント
「同じ証明書が、先週も別の司法書士から出されてましてね」登記官の言葉が決定打となった。つまり、同じ印鑑証明書が複数回使われていた。
印影自体は本物だが、それを誰がどう使ったのかが問題だった。
旧印影データの謎
登記官の協力で、過去に提出された同一人物の印影の履歴を取り寄せた。印鑑そのものは変わっていないのに、押し方や位置が異なっている。微妙な差だが、サトウさんは見逃さなかった。
「これはコピーではなく、スタンプ式の複製品ですね。ちゃんと押してるようで、押してない」
野球部時代の記憶が鍵に
私はふと、高校時代の監督を思い出した。「バットの芯を外せば、打ったように見えても飛ばないんだ」
つまり見た目だけでは真実は分からない。今回の印鑑も、押したように見えて押していない。表面だけを整えた虚偽だった。
二重申請と謎の登記識別情報
真犯人は、登記識別情報を知る立場の人間に違いない。そこで、亡くなった前所有者の親族を一人ずつ当たっていった。
その中で一人、不自然なタイミングで所有権放棄をしていた人物が浮上した。
サトウさんの推理が冴える
「この人、司法書士とグルですね。過去にも似たようなケースがあったはずです」
私は過去の登記記録を調べ直し、同じ名前の司法書士の存在にたどり着いた。その男はすでに業務停止処分を受けていたが、名前を貸して他人に登記をさせていたのだった。
犯人の動機と裏切りの契約
すべての経緯を聞いた警察は、元司法書士と偽の依頼人を同時に事情聴取した。彼らの目的は、遺産相続における財産の不正取得だった。
売買契約に偽装することで、第三者を通じて土地を売り払い、その金を山分けするつもりだったらしい。
隠された財産分与の真相
本当の相続人は遠方に住む高齢の女性で、まったく事態を知らなかった。彼女に真実を伝えると、涙ながらに感謝された。「あなたがいたから助かった」と。
やれやれ、、、そんな大したことはしてないんだが、やっぱり正義ってのは、疲れるもんだな。
真犯人の確保と司法書士の責務
事件は解決し、不正登記の申請は正式に却下された。印鑑証明書はすべて証拠として警察に提出された。
私は久しぶりに達成感を感じつつ、もう一杯コーヒーを淹れ直した。
証拠は一枚の印鑑証明書
結局のところ、すべての鍵を握っていたのはたった一枚の紙だった。そこに押された印影は、真実を語る静かな証人だったのだ。
誰よりも雄弁に、そして黙って犯人を指差していた。
事件の後始末と心の余韻
依頼者からの謝礼は断った。サトウさんは何も言わずに机に戻り、淡々と次の仕事に取りかかった。まるで何事もなかったかのように。
私はそっと、机の引き出しからおにぎりを取り出した。今日は梅干しだ。酸っぱさが心に沁みる。
サトウさんの無言の労い
「梅干し、塩分取りすぎですよ」サトウさんがぽつりと言った。その口調は、ほんの少しだけ優しかった。
やれやれ、、、こんな日も悪くない。