法務局に並ぶたびに人生が少し削られている気がする

法務局に並ぶたびに人生が少し削られている気がする

法務局の長い列に思うこと

午前中いっぱい、法務局の窓口前で立ち尽くす時間。私のように地方で司法書士をやっていると、申請書類を出すために毎週のように法務局に通うことになる。朝早く行ったはずなのに、既に番号札は20番台。手元の案件が詰まっている中、立ったまま待つその時間が、ただただもったいなく感じてしまう。待っている間にあれこれ考え事をしても、結局「この時間、何も生み出していない」という虚しさに戻ってくる。

なぜこんなに時間がかかるのか

手続きそのものは数分で済むのに、どうしてここまで待たされるのか。人員不足?それとも運用の非効率?一度、窓口の方に「今日は特別混んでますか?」と尋ねたら、「いえ、いつも通りです」と申し訳なさそうに言われた。つまり、これが通常運転だというのだ。ITが進んだこの時代に、紙の書類と人力処理が今なお中心にある。その事実に、毎度気力をそがれる。

書類一枚に午前がつぶれる現実

例えば登記識別情報の再発行申請。申請書と本人確認書類を添えて出すだけ。それだけの手続きのために、私は朝9時に事務所を出て、法務局に着いたのが9時半。手続きが終わったのは11時20分だった。帰ってくる頃には正午を過ぎていた。書類は5分、待ち時間は90分。これを「業務」として納得するには、もう割り切るしかない。

ネット申請は本当に時短になるのか

確かにオンライン申請という選択肢もある。私も何度も試した。ただ、地方の法務局では「やっぱり原本を持ってきてください」となるケースがまだまだ多い。しかも、一部の不動産登記では対応していない種類のものもある。結局、「どうせ行くなら最初から持って行った方が早い」という結論に落ち着いてしまう。結果、また列に並ぶのだ。

並びながらよぎるささやかな後悔

並んでいると、なぜか人生を振り返る時間ができてしまう。結婚もしていない。趣味も少なくなった。気がつけば仕事と法務局とコンビニの往復。40代も半ばに差しかかり、何をしているんだろうとふと思う。たかが順番待ちなのに、こんなにも自己否定的な感情が湧いてくるのは、自分でも不思議だ。

もっと早く来ておけばよかったという毎回の反省

何度も「次はもっと早く来よう」と思う。でも、実際には朝イチに別の依頼者対応が入ったり、事務員からの相談が長引いたりで、気づけば出発が遅れる。そしてまた「いつもの列」に並ぶ。これもまた、毎度のルーティンになってしまっている。自分の段取りの悪さに嫌気が差しつつも、変えられない現実がここにある。

窓口での待ち時間に心がすり減る

番号が近づいてくると、安心よりも緊張が勝る。「書類に不備があったらどうしよう」「補正と言われたらまた来るのか…」という不安が頭をよぎる。たとえ何度も経験していても、この緊張感は消えない。窓口の職員さんは基本丁寧だけど、たまに強めの指摘をされると、こちらの心がポキッと折れる。弱ってる日はなおさらだ。

司法書士という仕事の裏側

世間では「士業」と聞けば安定や尊敬のイメージがあるのかもしれない。でも実際は地道な作業の連続で、精神的にも肉体的にもなかなかしんどい仕事だ。特に一人事務所だと、すべての責任が自分にのしかかってくる。肩書だけが一人歩きしていて、現場はそんなにキラキラしていない。

先生と呼ばれるけれど

どこか形式的に「先生」と呼ばれても、自分の中ではちっとも誇らしくない。むしろプレッシャーの方が大きい。「先生に頼んでよかったです」と言われれば確かに嬉しい。でもその裏には「ミスできない」「完璧でなければならない」という強烈な責任感がある。人に頼られることは光栄だが、その分、重い。

モテないし報われない現実

余談だけど、司法書士になったからといって女性にモテるなんてことはまずない。合コンで「司法書士やってます」と言っても、「それって行政書士と違うんでしたっけ?」と聞かれるのがオチだ。休日に出会いの場へ行く元気も残っていないし、そもそも仕事が片付いていない。気づけばもう、独身生活が板についてしまっている。

仕事の責任だけは重たい

登記ミスは依頼者の人生を左右することもある。補正で済めばまだマシ、時には損害賠償という言葉がチラつくこともある。その緊張の中で、日々の業務を黙々とこなす。責任感が強くなければこの仕事は続かない。けれど、強すぎると逆に自分を壊してしまいそうになる。その加減が難しい。

一人で抱え込む日々

事務員はいるが、やはり最後の決断はすべて自分。相談も愚痴もなかなか打ち明けられない。経営者としての孤独、ミスできないプレッシャー、そして法務局での無力感。これらが日々、心の中で小さく積もっていく。たまに、その積もり方が一気に雪崩を起こしそうになる。

事務員に愚痴は言えないジレンマ

愚痴をこぼしたくても、事務員の前ではぐっと堪える。弱みを見せたくないわけじゃないけれど、仕事の雰囲気に悪影響が出るのが怖い。明るくいよう、優しくいようと思っても、疲れが顔に出てしまうこともある。そんなときは「ちょっと出かけてくる」と言って、車の中で一人になって気持ちを整理する。

元野球部の我慢強さで乗り切るしかない

昔、野球部で鍛えた忍耐力が今も生きているのかもしれない。炎天下の練習、理不尽な監督の叱責、それに比べたら法務局の待ち時間なんて…と思おうとしても、やっぱり辛いものは辛い。今は自分との戦いだ。でも、あの頃の「負けたくない」という気持ちが、今も小さく心の中で灯っている。

それでも辞められない理由

こんなにもネガティブなことばかり書いておきながら、それでも私はこの仕事を続けている。理由は明確じゃない。でも、どこかに「必要とされている感覚」があって、それが唯一、自分を支えている気がする。決して大きな成功があるわけじゃない。それでも、小さなありがとうの言葉が、また次の日の糧になる。

依頼者の助かったの一言

「本当に助かりました」と依頼者から言われるとき、自分の中で何かが報われるような気がする。たった一言なのに、肩の荷が少しだけ軽くなる。その言葉のために、また法務局へ足を運び、また書類と向き合う。効率も要領も悪いけれど、誰かの困りごとを解決できるこの仕事に、やっぱり意味はあるのかもしれない。

報酬より心に残る瞬間

登記完了の報告をしたときの安堵の表情、相続手続きで涙を浮かべながら「ありがとう」と言われた瞬間。そういう場面の記憶が、給与明細以上に深く心に残っている。お金じゃない、とまでは言わないが、お金だけでは動けない日もある。そのときに、心が動く瞬間が支えになる。

地方で生きるということ

都会では味わえない人間関係の濃さ、逆に逃げ場のなさ。地方で司法書士を続けるというのは、良くも悪くも“しがらみ”との付き合いだ。けれど、そのしがらみが、自分の居場所にもなっている。法務局で並びながら、「ああ、今日も誰かの役に立てる場所に立ってるんだな」と、時々思う。

逃げ場のない地元のしがらみ

高校の先輩、同級生の親、地元企業の社長。知ってる顔ばかりでミスも許されない。だからこそ、気を張っていないといけないし、心がすり減ることもある。都会なら気軽に転職もできるのに、ここではそれが難しい。地元という居場所は、同時に鎖のような存在でもある。

でもどこかで愛着がある場所

それでもふとしたときに、山の景色や、商店街のシャッターの音に懐かしさを覚える。ここで生まれ育ち、今もここで誰かの力になっている。便利ではないかもしれない。でも、この不便さも含めて、自分の居場所なのかもしれない。今日も法務局に向かう車の中で、そんなことをぼんやり思っていた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。