自分を押し殺して応じてしまう毎日
司法書士という仕事は「依頼を断る」という判断がとても難しい。特に相手が困っている様子を見せたとき、つい「なんとかしてあげたい」と思ってしまう。気づけばスケジュールはギチギチ。昼食を取る時間すら後回しにして、夕方になってからコンビニおにぎりをかじるような日もある。それでも断ることに罪悪感を感じてしまい、結局自分を後回しにするクセが抜けないのだ。
断ることで関係が壊れる不安
以前、「今週中に登記終わりますか?」と急ぎの依頼を持ち込まれたことがある。どう考えても無理なスケジュールだったのに、「できません」と言えなかった。もし断ったらもう頼まれなくなるんじゃないか、関係が悪くなるんじゃないか、そんな不安が先に立ってしまう。相手の機嫌を損ねたくない、信用を失いたくない。結局その依頼を受けたことで、他の予定にまで支障が出た。
「またお願いしてもいいですか?」に即答してしまう性
常連のお客さんに「またお願いしてもいいですか?」と聞かれると、口が勝手に「はい、大丈夫ですよ」と動いてしまう。本当は心の中で「もう無理です」と叫んでいても、口先だけで応じてしまう。元野球部の性格なのか、鍛えられた反射的な「はい」が抜けない。気を遣われるより、頼られる方が自分の存在価値があるように思えてしまうのも一因だ。
自分よりも相手の都合を優先してしまう習慣
「今日中に書類が欲しい」と言われれば、どんなに忙しくても「分かりました」と言ってしまう。断ったら迷惑をかける、断ったら嫌われる、そんな思いが頭を支配している。ふと気づくと、自分のやりたいことや大切な休息時間はどこかに消えていた。こうして自分を削ってまで相手を優先してしまう性格が、結果的に誰も幸せにしないのではと考えることもある。
感謝されるよりも疲労感が勝る瞬間
依頼を終えたあと「助かりました、ありがとうございました」と言われることはもちろんある。だが、正直なところ最近はその言葉が疲労感を上回らない。感謝の言葉を聞いても心が動かないどころか、「もう少しだけ待ってくれてもよかったのに」という気持ちが頭の片隅に浮かぶ。疲れがたまると感情も鈍くなってくるものだと実感している。
「助かったよ」と言われてもなぜか空しい
昔は「ありがとう」のひと言がうれしかった。けれど今は「助かったよ」と言われても、「こちらこそ、助かりたいです」と心の中でぼやいている。期待に応えることが仕事だと頭では分かっている。それでも、どこか虚しさが残るのは、頑張りすぎた自分を誰も労ってくれないからなのかもしれない。そう思ってしまう自分に嫌気がさす。
限界のサインに気づかず突っ走る怖さ
休みの日でもスマホが鳴れば対応してしまう。おかげで心が休まる暇がない。そんな日々が続いたある日、突然体が動かなくなった。原因は過労とストレスだった。限界って本当に突然やってくるのだと、その時身をもって知った。無理してでもやる癖は、命を削る危険すらあると痛感した出来事だった。
頼まれやすい人の苦しみ
「あなたにお願いしたいんです」と言われると、つい嬉しくなる。でもそれが続くと、嬉しさよりもプレッシャーが勝ってくる。頼まれる=応えなければいけない、という図式ができあがっていて、それを裏切ることに恐怖を感じる。頼まれやすいことは決して悪くはない。だが、それが自分を追い詰めることもあるという事実には向き合う必要がある。
断らない人間は便利屋にされやすい
「この人は断らない」と思われた瞬間、便利屋扱いが始まる。自分に頼めば何でもやってくれると思われてしまうと、徐々に依頼の内容も雑になってくる。昔、あるお客さんに「ついでにこれもお願い」と言われ、断れずにやってしまった。その結果、本来の仕事の質が下がり、逆にクレームを受けた。なんでも引き受ければ良いわけではないのだと、そのときようやく学んだ。
いつのまにか「何でも屋」になっていた司法書士
登記業務だけでなく、行政書士のような仕事、さらには「この書類ってどこに出せばいい?」といった市民相談まで抱え込んでしまう。誰かの助けになれるのは嬉しい。でも、気づいたら「司法書士」という本来の専門性より、「便利な人」としての役割を求められることが増えていた。これでいいのか、と自問自答する日々だ。
事務員にまで気を使ってしまう自分がつらい
雇っている事務員にもつい気を遣ってしまう。「これお願いしてもいい?」と頼むときも、「今、忙しいかな」「疲れてるかな」と顔色をうかがってしまう。自分の仕事なのに、誰かに負担をかけることが怖くて、結果的に自分が全部背負ってしまう。こんなふうに周囲に気を使いすぎて自爆するのが、自分のいちばん悪い癖なのかもしれない。
元野球部的な精神論が自分を縛る
高校時代、野球部で叩き込まれたのは「弱音を吐くな」「最後までやり抜け」という精神論だった。たしかにその経験が今の仕事の支えにもなっている。でも、それが時に自分を追い詰めてしまうこともある。もっと楽にやればいいのに、と思いながらも、「途中で投げ出す自分は許せない」という謎のプライドが邪魔をしてしまう。
「最後までやりきるのが男」という呪縛
「中途半端に投げ出すな」と言われ続けて育った。だからこそ、途中で断ること、助けを求めることが「敗北」のように感じてしまう。だが社会に出てから、それでは自分が壊れると気づいた。完璧主義と責任感の板挟みになり、苦しんでいる司法書士は少なくないはずだ。最後までやりきることだけが正解ではないと、ようやく思えるようになってきた。
努力根性の美徳が今では自分を追い詰める
「辛くても努力すれば報われる」と信じてきた。でも実際の現場では、努力がむしろ自分の首を締めることもある。頑張りすぎることで「この人ならもっとやれる」と期待されてしまい、さらに仕事が降ってくる。そのループに気づいても、抜け出す勇気が持てなかった。今は「頑張らないこと」を意識的に選ぶようにしている。
「昔の自分」に引っ張られて身動きが取れない
昔の頑張っていた自分、評価されていた自分、そのイメージに縛られて、いまの自分を許せなくなることがある。「あの頃はもっとできていたのに」と自分に言い聞かせては、無理にギアを上げてしまう。だけど、それが今の自分を苦しめていることに、やっと気づいた。過去の自分に勝とうとするより、いまを生きることの方がよっぽど大事だ。
やさしさと自己犠牲の境界線
やさしい人間でいたいという気持ちは、間違ってはいない。でもそのやさしさが自己犠牲になってしまうと、もはや自分を大切にできなくなる。どこまでが思いやりで、どこからが犠牲なのか。その境界線は案外曖昧だ。だからこそ、自分の心に正直になる時間が必要なのかもしれない。
優しさと八方美人は紙一重
誰にでも良い顔をしてしまうと、結局誰にも本音を言えなくなる。そうして、自分の本当の居場所が分からなくなることもある。優しい自分でいたいと思う反面、「いい人だと思われたい」という欲もどこかにあるのだろう。気をつけないと、誰かのための優しさが、自分のための嘘になる。
「いい人」でい続けた末の孤独
人に合わせてばかりいると、ふとした瞬間にとてつもない孤独感に襲われる。誰かに頼られることで満たされていたはずが、気づけば自分の本心を誰にも話せなくなっていた。そんな孤独は、他人に囲まれていても解消されない。自分の本音を押し殺してきた結果が、この静かな孤独なのかもしれない。
結局、誰にも頼れない現実が待っている
普段から「頼られる側」でいると、自分が困ったときに誰に頼ればいいのか分からなくなる。「忙しいのは分かってるけど…」と遠慮してしまい、気づけば全部自分で背負い込んでいる。人に頼られることに慣れすぎた代償は、意外と大きい。そして、それに気づいたときにはもう、心も身体もボロボロだった。
どうすれば「断る勇気」が持てるのか
「できません」「それは難しいです」と言える自分になるには、覚悟がいる。でもそれは冷たいわけでも不親切なわけでもない。むしろ、自分の仕事の質を保ち、相手にとっても誠実であるための選択だ。「断ること」が信頼につながることもあるのだと、ようやく少しずつ実感しはじめている。
相手との信頼関係を壊さずにノーを伝える方法
「今は対応が難しいですが、来週ならお受けできます」といった伝え方を工夫するだけでも、印象はまったく違う。相手の期待に応えるためにも、自分のキャパを守ることが大事だと気づいた。断ることは悪ではない。むしろ、誠実さと信頼を保つための戦略でもあるのだ。
断ることでむしろ信頼されるという逆説
「いつも頑張ってくれてるから、今回は無理でもしょうがないですよ」と言ってくれた依頼者がいた。その一言が、断ることの大切さを教えてくれた。誠意を持って伝えれば、相手も分かってくれる。無理に引き受けるより、断ったほうが関係が良くなることもある。そう思えたのは、司法書士人生の中でも大きな転機だった。
断ったあともちゃんと関係は続くという体験談
過去に一度、ある依頼をやむなく断ったことがある。内心では「これで終わりか」と思っていた。ところが数か月後、その依頼者から「またお願いできますか」と連絡が来た。「正直に断ってくれて信頼できた」と言われたとき、涙が出そうになった。自分を守る選択が、相手との関係を壊すとは限らないのだ。