司法書士という名前の重さ
「司法書士」と名乗ると、大抵の人は「すごいですね」とか「頭良さそう」といった反応をくれる。だが、こちらの本音としては「そんなたいしたもんじゃないです…」と、つい口ごもってしまう。確かに国家資格ではある。でも、名刺の肩書きと日々の業務内容には、かなりのギャップがある。そんなにカッコいい仕事じゃない。泥臭くて地味で、誰にも気づかれずに夜遅くまで働いていることも多い。「先生」と呼ばれても、なんだかくすぐったいような、申し訳ないような気分になる。
名刺に刻まれた肩書きと実際の業務のギャップ
名刺には「司法書士 稲垣達也」と書かれている。見た目は立派だし、何となく重みもある。でも実際の業務はといえば、朝から晩まで申請書類をチェックして、依頼人からの電話に対応して、たまにはトラブルの仲裁まで…。その一方で、世間では「法律のプロ」と思われてしまうこともあって、過剰な期待をされる。法律相談を頼まれて「それは弁護士の範囲ですね」と説明しても、「司法書士なんだから何とかしてよ」と困惑されることも少なくない。
「先生」と呼ばれることへの違和感と戸惑い
依頼人から「先生、よろしくお願いします」と頭を下げられるたびに、何とも言えない気持ちになる。別に偉くもなんともないし、ただ書類をつくって役所に提出してるだけ。それでも相手は「先生」として見てくる。地方でやっていると特にそうだ。「法律に詳しい人=先生」というイメージが根強い。子どもの頃に思い描いていた“先生”像とはまるで違う。現実は、プリンターのトナー切れに慌てたり、提出期限ギリギリでバタついたりの連続だ。
依頼人の期待と現実の間で揺れる毎日
たとえば先日、ある高齢の依頼人が「先生に頼めば全部安心だから」と言ってきた。それはありがたいし、信用してもらえるのは本当にうれしい。でも実際には、役所の対応次第でどうにもならないこともあるし、他士業と連携が必要なケースもある。こっちは現実的な限界を説明しているつもりでも、相手からすると「断られた」「冷たい」となる。期待に応えきれない自分に、情けなさと悔しさを感じることもしばしばだ。
思った以上に地味で泥臭い現場の仕事
司法書士の仕事って、外から見ると堅そうで、なんとなく清潔なイメージを持たれがち。でも実態は「地味」そのもの。登記簿謄本を読み漁ったり、法務局に何度も通ったり、書類に不備があって出戻ることも日常茶飯事。雨の日にスーツが濡れて不快なまま登記を出しに行くなんてこともある。スマートな仕事ではなく、ひたすら確認と訂正、そして期限との戦い。その繰り返しが現実だ。
登記の書類と格闘する日々の繰り返し
特に不動産登記の書類は、わずかなミスも許されない。住所の番地が一文字違っただけで補正が入り、また法務局へ行き直しになる。誰にも見えないところで、細かい数字や漢字に神経をとがらせている。ミスすれば依頼人に迷惑がかかるし、自分の信用もガタ落ち。だから毎日、神経をすり減らして書類を読み込み、何度もチェックする。達成感よりも「ミスがなかった安堵感」が先にくる仕事だ。
司法書士になった日のことを今でも覚えている
あの日、試験に合格した瞬間のことは今でも覚えている。通知を開いて、自分の受験番号を見つけたとき、手が震えた。長かった勉強生活が報われた気がしたし、ようやく「肩書き」を手に入れたんだと感慨深かった。でも、それはスタート地点に過ぎなかった。そこからが、本当の意味での“サバイバル”の始まりだった。
試験合格の喜びとその先にあった現実
試験合格後、すぐに開業を決意した。田舎だから競争相手も少ないし、やっていけると思った。でも実際には、仕事がすぐ舞い込むわけもなく、電話が鳴らない日が続く。ようやく依頼が来たかと思えば、報酬に見合わない手間がかかる内容ばかり。それでも「信用第一」で動かなきゃいけない。理想と現実のギャップに、何度も心が折れそうになった。
理想と現実が擦り減らしていく情熱
最初の頃は「地域の役に立ちたい」と本気で思っていた。でも、毎日書類とにらめっこしているうちに、その気持ちもどこかへ消えかけていた。お金も時間も余裕がないなかで、理想ばかり掲げても現実は変わらない。何より、自分自身の心の余裕がなくなっていった。情熱を維持するのって、想像以上に難しい。特に、孤軍奮闘の地方事務所ではなおさらだ。
家族や友人の反応と自分の内心のズレ
「司法書士になったんだ、すごいね!」と友人や親戚に言われるたび、笑顔で「ありがとう」と返しながらも、心の中では「中身知らないでしょ…」とつぶやいていた。褒めてくれるのはありがたい。でも、それが逆にプレッシャーになって、自分を追い込んでいた面もある。周囲の期待に応えようとするあまり、無理を重ねていた。
「すごいね」と言われても全然そんな気がしない
たとえば年末年始に仕事が集中して、ろくに休めなかった年もある。そんなときに「司法書士って儲かるんでしょ?」なんて言われると、心の中でツッコミたくなる。「儲かるなら、今こんなに胃が痛いわけないでしょ」と。外から見える肩書きと、内側の現実には、とんでもなく大きな溝がある。そのギャップを誰にも言えず、ただ耐えている司法書士は、実は結構多いんじゃないだろうか。
肩書きに縛られすぎず生きるために
司法書士という肩書きは、時に自分自身を縛るものになる。「こうあるべき」とか「先生らしく」とか、勝手に自分を追い込んでしまう。でも最近は、少しずつ力を抜いて考えられるようになってきた。司法書士である前に、一人の人間としてどう生きるか。その視点を持つことで、ようやく少しだけ肩の力が抜けてきた気がする。
「司法書士」だけではない自分を見つける
週末には、たまにキャッチボールをする。誰とって? そりゃ一人で。バッティングセンターにも行く。元野球部だから、身体を動かすことで心が軽くなる。司法書士という職業だけに人生を預けすぎると、しんどくなる。だから、自分の中に「別の顔」を持つことが大事だと思っている。趣味でもいいし、愚痴でもいい。肩書きじゃなくて、自分を保つための何かを。
野球部時代に戻りたくなる夜もある
忙しさと孤独感がピークに達したある夜、ふと高校時代の野球部の写真を見返した。泥だらけになって笑っていたあの頃は、何かとにかく必死だったけど楽しかった。戻れるわけじゃないけど、あの頃のがむしゃらさを思い出すだけで、少しだけ今の自分を励ませる。司法書士としての肩書きよりも、人としての原点を思い出すことの方が、ずっと力になる。
ちょっと愚痴ることで救われる日もある
「疲れた」「もうやってられん」って、たまに口に出すと少し楽になる。依頼人の前ではそんなこと言えない。でも、このブログみたいな場でなら、少しくらい愚痴ってもいいんじゃないかと思う。誰かが「わかる」と言ってくれたら、それだけで救われる。司法書士だって人間なんだし、完璧じゃなくていい。
モテなくても誰かの役に立てていればいい
正直、モテたことはほとんどない。合コンも断られるし、婚活もうまくいかない。でも、登記のことで困っていたおばあちゃんが「先生、ありがとう」と泣きながら頭を下げてくれたとき、「ああ、自分にも役割があるんだな」と思えた。恋愛では空振りでも、人生では少しくらいヒットを打ててるかもしれない。そう信じて、また明日も登記簿を開く。