開業前の違和感
朝の事務所には、まだコーヒーの香りが残っていた。カレンダーを見ると、今日は予約も少ない。だが、机の上に置かれた一通の封筒が、まるでそこに「事件がある」と主張していた。
封筒には手書きで「登記関係書類」とだけ書かれていたが、差出人名はなし。不審に思いつつも中身を確認すると、委任状や印鑑証明書、そして申請書類がきちんと揃っていた。
…にもかかわらず、どこか引っかかる。それは、書類の「匂い」だった。紙からにじむ生活感が、司法書士の嗅覚に妙な警告を発していた。
予約表にない名前
パソコンで予約表を確認したが、その名前はどこにもなかった。氏名欄に書かれた「田所信一」という名は、過去の案件にも見覚えがない。
サトウさんに聞くと、「そんな名前、ここ1年の案件には出てきませんね」と、冷静に答えた。いや、冷静というより、完全に塩対応だ。
書類は揃っているが、当人の記録が一切ない。ファイルに記録を残すのが仕事の私にとって、これは小さくない矛盾だった。
書類の提出者
その日の午後、事務所のインターホンが鳴った。防犯カメラを確認すると、スーツ姿の男性が立っている。目元にマスク、手にはビニール封筒。どうやら先ほどの書類の持ち主らしい。
応対に出ると、彼は静かに言った。「田所です。午前中に書類を投函させていただきました。」
声は落ち着いていたが、どこか作られた抑揚のなさが耳に残った。
マスク越しの微笑
事務所に通すと、彼はマスク越しににこりと笑った。だがその笑みにも、不自然なものを感じた。
身分証の提示を求めると、彼は運転免許証を取り出した。だが私はその一枚に目を疑った。名前は「田所信一」、だが…写真が、やけに古くさい。
「写真、最近撮られたものですか?」と尋ねると、彼は少し間をおいて「ええ」と短く答えた。明らかに不自然な間だった。
本人確認の一幕
司法書士にとって、本人確認は命だ。免許証だけでは不十分な場合、補完資料を求めることもある。だが彼は「今日はこれだけしか」と、やや強引に話を進めようとした。
「やれやれ、、、」思わず心の声が漏れた。このご時世に、そんなに堂々と不完全な資料で来るとは。
私は言った。「お急ぎでしょうが、補完資料を確認させていただけないと、お手続きは進められません。」彼は明らかに動揺した様子で、「じゃあ改めます」と言って立ち去った。
運転免許証に潜む違和感
免許証のコピーを取っていたので、すぐにサトウさんと確認に入った。「この写真、10年くらい前の撮影に見えます」とサトウさん。
さらに彼女は免許証番号のチェックディジットの法則を確認し、「この番号、微妙に変なんですよね」とつぶやいた。
まるでルパン三世が変装して銀行に現れたような違和感だった。本人になりすました何者か? だとしたら、目的はなんだ?
サトウさんの推察
「登記関係で偽装するなら、たぶん相続です。今、時効が切れそうな案件が多いので」とサトウさんが冷静に言う。
彼女の言葉に背中がぞくりとした。誰かの死後、相続登記をせずに放置された土地を、なりすましで奪おうとしているのではないか。
「あの人、何も説明してませんでしたね。ただ書類を渡して、黙ってた感じ」とサトウさん。黙っていることこそが証拠だった。
職業欄と口調の矛盾
書類の職業欄には「税理士」と書かれていた。だが、税理士なら印紙の貼り方にもっと詳しいはず。
さらに彼の口調から、法務関連の知識は感じられなかった。むしろ、「素人が調べてやってみた」感が強かった。
つまり、「本人ですらない」「税理士でもない」可能性が極めて高いということだった。
消えた申請人
翌日から彼は姿を見せなくなった。電話番号も不通。メールアドレスもフリーメールだった。
書類に書かれていた住所を訪ねてみたが、そこはすでに空き家。ご丁寧に表札すら外されていた。
「幽霊登記申請」なんて言葉はないが、まさにそんな気配を残して彼は消えた。
書類だけが残された机
事務所の机には、あの日の書類ファイルだけが残されていた。照合できない身分証のコピー、形式的な申請書類。
これでは登記手続きは進まない。だが、これが証拠になる可能性もある。
私はそのファイルにラベルを貼った。「照合不能ファイル」——まるで劇場版コナンのタイトルのようだった。
登録免許税の謎
印紙の額面を見ると、計算が少しおかしい。5万円貼るべきところが4万8千円だった。微妙に間違えている。
「プロの仕事じゃないですね」とサトウさんがまた冷静に言う。うん、そこは同感だ。
金額だけでなく、貼り方も雑で、のりがはみ出していた。
コンビニ支払いの落とし穴
貼られていた印紙には「コンビニ発行」のスタンプがあった。つまり、ネットで印紙代を購入していたわけだ。
このスタンプがなければ、もっと危なかった。印紙の偽造もあり得る世の中だ。
紙一重のミスが、事件を防いだ。それが今回の“本人確認できなかった理由”の核心だったのかもしれない。
二度目の来訪
事件から一週間後、まったく別人が事務所に訪れた。だが名字は同じ「田所」。そして提出された戸籍謄本に記載された先代の名前に、私は見覚えがあった。
「兄のものです。先週、何か持ってきませんでしたか?」
兄弟間の相続争い、そしてなりすまし…。地味な事件だが、これはれっきとした登記詐欺未遂だ。
名前を変えた依頼人
後日、警察との連携で兄の偽名使用と身分証偽造が明らかになった。まるで探偵漫画のような展開だった。
サザエさんの波平さんなら「バッカモーン!」と怒鳴っていただろうが、私はただ一言、「やれやれ、、、」と呟いた。
司法書士は探偵じゃない。でも、ときどき事件に出会ってしまう。
法務局からの電話
「この方、やっぱり本人じゃなかったようですね」と、法務局の担当者から報告が入った。
手続きは未遂に終わったが、書類の痕跡が残ったことで、今後の抑止にもつながるという。
私たちの「疑った眼」は、たまには正解を引くようだ。
データベースにない存在
法務局の登記情報にも、彼の名前は登録されていなかった。つまり、「存在しない所有者」として申請されていたのだ。
この点が決め手となり、警察にも正式に通報された。
照合できないということは、「この世に存在しない」と同義なのだ。
照合不能の真相
事件は終わった。が、司法書士の仕事は続く。登記簿の奥には、まだまだ見えないトラップが潜んでいる。
照合不能な身元、書類だけの存在、仮名の相続人。紙一枚の向こうには、幾つもの闇がある。
「照合不能ファイル」。これは単なる書類じゃない。事件の始まりを示す、ひとつの証拠だ。
過去の名義人との一致
不思議なことに、申請された不動産の名義人と、訪ねてきた弟の話に齟齬があった。
彼らの父の名前が、どこにも登記に出てこないのだ。
調査の結果、30年前に一度だけ登記を移転していた形跡があった。真の名義人は、まったく別の人物だったのだ。
司法書士の一手
結局、私がやったのは「本人確認ができなかった」と報告しただけだ。でも、それが事件の芽を摘んだ。
私は元野球部。守備範囲は広くないが、三遊間のゴロはたまに止める。
やれやれ、、、こんな仕事ばっかりじゃ、いつ彼女ができるんだか。
やれやれ、、、消せない過去ってやつか
ファイルを閉じ、私はため息をついた。世の中には、本人であることを証明できない人間がいる。
だがその一方で、「本人ではないこと」を証明される人間もいるのだ。
どちらにせよ、過去の痕跡は消せない。紙の向こうに残されたその真実が、それを物語っている。
ファイルに残されたもの
「照合不能ファイル」は、事務所のキャビネットに封印された。いつか誰かが再びそれを開くかもしれない。
そのとき、もう一度“本人確認”が始まるのだろうか。いや、もう始めたくはない。
私は最後にファイルを見つめて呟いた。「今度は、ちゃんと本人を連れてきてくれよな」
本人確認の本当の意味
本人確認とは、ただの書類チェックじゃない。そこには“誰が何のためにここにいるのか”を見抜く力が要る。
そして時に、それは小さな事件を未然に防ぐ。司法書士の地味な仕事の中で、最も静かで、最も鋭い刃かもしれない。
今日もまた、静かな戦いが始まる。ファイルの奥で、誰かの名が照合されるのを待っている。