名義の檻とひとつ屋根の下

名義の檻とひとつ屋根の下

朝の来訪者は名義変更を望む

八月の朝。じっとりとした湿気が事務所の壁を這っていた。そんな中、玄関のチャイムが鳴った。

現れたのは、50代と思しきスーツの男。やや汗ばんだ額に、不自然な作り笑いが張り付いていた。

「あの、この家の名義変更、お願いしたいんですが……」声は小さく、目は伏せられていた。

依頼人は中年男性と名乗った

「林と申します」と名乗った男は、古びた登記簿と数枚の資料を差し出した。

しかし、その資料の束には不思議な空白と、記入された筆跡の違いが目立っていた。

「急いでましてね、できれば今週中に……」と林は言うが、焦りが滲み出ていた。

話しぶりにどこか焦りがあった

その口調はどこか嘘を塗り重ねたような歪みがあった。焦りというより、隠し事に追われている印象だ。

「この住所、同居人は……?」と尋ねると、林は一瞬、目を逸らした。

「いや、もう出ていきました。今は私ひとりです」――シンドウはその言葉に首を傾げた。

サトウさんの目が鋭くなる瞬間

横から黙って資料を見ていたサトウさんが、ふと手を止める。

「この固定資産税の通知書、名義が“林明美”になってますが……」

林の顔色が一気に曇った。「あ、それは…昔のままでして……」

権利関係の話が噛み合わない

相続か贈与か、売買か。そのあたりの説明があいまいだった。

そもそも委任状に記載された日付と、実際の登記簿に記された変更日は一致していない。

「おかしいな。まるで時系列が逆転しているようですね」シンドウはぼそりと呟いた。

登記簿の裏側にヒントがある

備考欄に記された、抵当権の設定と解除履歴。その日付の中に一つだけ、違和感があった。

普通なら、解除は最後の登記になる。しかし林の資料では、その順番が入れ替わっていた。

「こりゃルパンじゃなくても気づくわ」サトウさんが皮肉を込めて言った。

元野球部の勘が冴える時もある

過去に扱った似たような案件を、シンドウはふと思い出した。

離婚後の財産分与で揉めた事例だった。あのときも名義は変えず、実体は分断されていた。

まるで、名義だけが檻に残されたような状況だ。

旧姓が使われていた契約書

提出された契約書の署名は「林明美」――だが住民票には存在しない名だった。

「旧姓を使って取引したってこと?いや、それじゃ……」

疑念が、確信へと変わっていく。契約書そのものが偽造だったのでは?

やれやれ、、、また偽名か

肩をすくめてシンドウは溜息をつく。「やれやれ、、、こういう時に限って弁護士じゃなく俺なんだよな」

サトウさんは一切の同情もなく書類をコピー機に置いた。「偽名の件、警察に通報しますか?」

「……まずは話を聞こう。人にはそれぞれ事情がある」

共有名義は誰と誰だったのか

資料を整理すると、登記名義は林明美と、もうひとりの女性名になっていた。

しかしその人物の現在の所在は不明。まるでこの世から消えたかのように。

「同居してたってのは、妹じゃないな。恋人か、もしくは……」

妹と同居人という不可解な関係

林の発言では「妹」としていたが、戸籍上にその名はなかった。

加えて同一住所に住んでいた記録もない。

「架空名義?いや、それにしては書類が整いすぎてる……」

過去に発生していた贈与トラブル

シンドウは過去の訴訟記録データベースに当たり、ある判例を見つけた。

「林明美」名義で過去に贈与に関する民事訴訟が起こされていたのだ。

被告の名に林の本名が記されていた。つまり、林は二度目だったのだ。

家の取り壊しと名義分断の動機

この家は近く取り壊される予定だった。再開発の補償金が出る。

しかし、名義が共有のままでは全額を受け取れない。

林が焦ったのはその補償金だった――それを独り占めしたかった。

相続放棄では説明がつかない矛盾

林は「妹が相続放棄した」と主張していたが、そもそも相続が発生していなかった。

つまり、相続放棄という制度を盾にした虚偽申告だった。

「やってくれたな、お兄さん」サトウさんが冷ややかに言った。

火災保険と抵当権の奇妙な関係

不審に思ったサトウさんが保険会社に照会をかけると、新たな名義で保険契約がされていた。

その名は林の元恋人だった。抵当権はその名義で設定されていた。

「名義を変えたくて仕方なかった理由が、これで明らかですね」

塩対応のサトウさんが見抜いたこと

「委任状の日付が、そもそも存在しない祝日なんですよ」

サトウさんの一言に、林の肩がピクリと震えた。

不自然な日付、それが嘘の契約書の決定的証拠だった。

登記原因に記載された日付が嘘だった

本来なら役所が閉まっている日付で契約が交わされていたというのは不可能だ。

司法書士としては登記原因の正当性に疑義を持たざるを得ない。

シンドウは、静かに言った。「無効だね。この書類、全部やり直し」

本当の所有者は誰だったのか

真の名義人は林ではなかった。贈与を受けたはずの恋人が、権利を保持していた。

林はそれを隠し、勝手に家を売ろうとしていたのだ。

その目論見は、塩対応の事務員によって見事に粉砕された。

突きつけたのは過去の委任状

サトウさんが提出したのは、5年前に登記された同住所の委任状控えだった。

そこには恋人の直筆署名があり、日付も登記も整っていた。

「これで、あなたの話が全部嘘だったって証明できます」

依頼人の表情が一変した

林はゆっくりと、しかし確実に顔を引きつらせた。

まるで、カツオがタラちゃんに嘘をばらされた時のような顔だった。

「もう帰っていただいて構いません」とサトウさん。

隠された売買契約書の存在

後日、恋人が自ら契約書を持って現れた。

そこには林に無断で売却を禁じる特約が記載されていた。

「彼、勝手にいろいろやるんです。でも、もう終わりにします」

司法書士シンドウのひと押し

「いろいろあっても、家って残酷だな」とシンドウは呟いた。

登記とは記録だ。だが、人の気持ちは書き換えられない。

それでも書類を整えるのが、俺の仕事だった。

意外な証人が登場した

後日、近所の不動産屋が「あの人、昔も同じことしてたよ」と話してくれた。

どうやら林は前にも同様のトラブルを起こしていたらしい。

「二度あることは三度ある、ですね」とサトウさん。

裏で糸を引いていた人物とは

調査の結果、名義取得の裏には地元のブローカーが関与していた。

林はそのブローカーに焚きつけられて、名義を奪おうとしていたのだ。

しかしその筋書きは、素人には無理だった。まるで三流の劇団だった。

事件の結末と法的決着

登記は無効とされ、元の名義に戻された。

補償金は正当に分配され、林は法的責任を問われることとなった。

それでも、心のしこりは登記では癒せないのだ。

分断された名義が一つに戻る時

紙の上では、ようやく「共有」が再生された。

しかしもう、そこに共同生活の気配はなかった。

家だけが、名前だけが、檻の中に残された。

サトウさんのため息と冷たい紅茶

「こういう話、多いですよね」と彼女は言いながら冷たい紅茶を一口飲んだ。

「うまくやれたらって思うんでしょうけど、結局、全部バレる」

「……それを暴くのが、俺たちの仕事ってことだな」

名義は人を縛る檻になる

名前があれば家が守れる。そう思っている人間は多い。

けれど、その名前の重さに耐えられる人間は少ない。

紙一枚の価値、それを決めるのはやはり人間なのだ。

紙一枚で壊れる家族の形

共有名義という響きは優しそうでいて、冷たい。

家族の崩壊は、たいてい印鑑の数から始まる。

今日もまた、誰かの「ひとつ屋根の下」が終わった。

それでも人は名前を残したがる

「不思議ですよね。壊れた家にも名義は残る」

「誰も住まない家に、名前だけがずっと貼り付いてる」

シンドウは少しだけ笑った。「やれやれ、、、また仕事が増えるな」

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓