ふとした瞬間に老後を意識した
最近、夜中に目が覚めてトイレに行くことが増えた。二度寝はできるけど、妙に眠りが浅くなった気がする。ある夜、台所で水を飲もうと立ち上がったとき、ぎしっと鳴った床の音に、なぜか「老後」という言葉が浮かんだ。昔はそんな音にも反応しなかったのに。五感が鈍るんじゃなくて、敏感になるというのはこういうことかと、妙に納得してしまった。
コンビニでのやりとりに年齢を感じる
ある日、昼休みに近所のコンビニで弁当を買った。レジにいたのは、明らかに自分の年齢の半分くらいの若い男性店員。彼はマニュアル通りの口調で応対してくれたが、こちらがSuicaを取り出す手間取る様子を、少しせっかちに見ていた。何も言われてないのに、「すみませんね、遅くて」と口に出しそうになる。そんな自分に気づいて、なんだか情けなさと同時に歳を感じた。
若い店員さんとの温度差
昔は自分も、せっかちな若者だったと思う。けれどいまは、逆の立場だ。レジでのテンポ、受け取りの仕草、その全てが少し遅くなってきているのを、若い店員との距離感で痛感する。悪気があるわけじゃないのはわかっている。でも、お互いのスピードが噛み合っていない感じがして、それが「老い」なのだと実感させられる瞬間だった。
小銭をゆっくり出す自分に気づく
その日は財布の中の小銭を全部使い切ろうとしていた。1円玉、5円玉を数えながらレジに差し出す姿が、まるで昔の祖父のようだとふと笑ってしまった。でも、その笑いはどこか苦い。かつての自分なら、スマートに電子決済を済ませ、店をサッと出ていただろうに。今は「間違えずに出す」ことが目的になっている。年を取るというのは、スピードよりも確実さを選ぶことなのかもしれない。
昔と比べて変わったこと
いつからこんなに慎重になったのか。かつては無鉄砲なくらい突っ走っていたのに、今はまずリスクを考えるようになった。変化に気づくのは、変わった自分に直面したとき。過去の自分と比べてしまう瞬間が、じわじわと老後を意識させる。
野球部だった頃の体力と気力
高校時代は野球部で、毎日汗だくになって走り回っていた。朝練が終わったあとに授業、放課後にはまた練習。あの頃は疲れていても、翌日にはケロッとしていた。今は少し庭の草取りをしただけで、翌日は腰が重くなる。気力はあるのに体がついてこない。この乖離が、地味に精神的なダメージを与えてくる。
あの頃の肩はどこにいったのか
たまに草野球に誘われる。断る理由はないけど、実際に投げてみると、自分の肩がまったく昔のように動かない。キャッチボールをしていたつもりが、ただの肩慣らしになっていた。「フォームが崩れてるぞ」と言われても、それは崩れてるんじゃなくて、もう崩れたまま治らないのかもしれないと感じてしまう。これは技術の問題じゃない、時間の問題だ。
朝の目覚めに疲れが残るようになった
昔は目覚ましなしでスッキリ起きられた。でも今は、目覚ましで無理やり体を引っ張り上げるような感じだ。寝たのに疲れが取れていない。夢を見すぎるのも、何かの疲れのサインなのだろうか。「よく眠れたなあ」と思える朝が、月に数回しかないことにふと気づいたとき、自分の身体が老いのフェーズに入ったんだと実感する。
仕事は増えるけど体はついてこない
事務所の案件は年々増えている。ありがたいことだが、体力と集中力がそれに比例していない。ひとつひとつを丁寧にこなすのがしんどくなってきている。でも手を抜けば信用にかかわる。そんなジレンマに挟まれて、老後の足音が確実に近づいているのを感じる。
登記申請ミスが増えた気がする
昔は一発で通っていた申請書類も、最近は細かい見直しが増えた。自分で「これで完璧」と思っても、チェックしてみるとどこか抜けがある。疲れていたから…で済ませるには怖すぎる。それでも「老化現象」と認めるのは悔しい。だからこそ、見直しの回数を増やして何とか自分を守っている。
集中力が切れるタイミングが早い
午前中はまだ良い。昼食をとって14時を過ぎると、目がかすんできて、頭もぼんやりする。以前ならその時間帯こそ集中できていたのに、今は「休憩しないと危ないな」と感じることもある。1日の中で波があるというのは、年齢の証なのかもしれない。無理をしても、結局翌日にツケが回るのだから、うまく自分のリズムを調整するしかない。
自分への信頼と疑いの間で揺れる
「俺なら大丈夫」と思う気持ちと、「またミスするかも」という不安の間で揺れている。過信も怖いし、自己否定もしたくない。けれど、現実は容赦なく細かいミスを突きつけてくる。年齢が重なると、技術よりも「自分を信じられるかどうか」の精神的なバランスが問われる気がしている。