手帳を開けば仕事しかない

手帳を開けば仕事しかない

気づけば予定表は全部仕事だった

手帳をめくるたびに目に飛び込んでくるのは、依頼者の名前と登記の締切、相談日の記載ばかり。誕生日も結婚記念日も、そもそも祝う相手もおらず、自分のための予定なんてどこにも書いていない。「空いてますか?」と聞かれた日はすべて埋まり、「空いてます」と言えなくなった今、空白はもう存在しない。こんな生活をしていると、いったい誰のために働いているのかわからなくなってくる。

最初はもっと余白があった気がする

開業したばかりの頃は、手帳にもたっぷり余白があった。午前中に1件だけ予定が入っていて、午後は「調べもの」や「読書」の文字もあった。それが今では、午前も午後も“登記”“面談”“法務局”の繰り返し。まるで埋め尽くされた教科書のように、余白というものがなくなった。人は余白がなくなると、気持ちの逃げ場も失う。そんなことに最近ようやく気づいた。

昔は「飲み会」とか「野球」とかも書いてた

元野球部という肩書はもはや遠い記憶。昔は週末に地元の仲間と草野球をして、そのあとは銭湯に寄ってビールを飲んでいた。手帳にも「練習試合」とか「○○と飲み」といった予定があって、それを見るたびに少しワクワクしたものだ。それが今じゃ“法定相続情報一覧図作成”だの“信託契約案の打合せ”だの、気が重くなるワードしか並ばない。何が楽しくて、これを書き続けているのか。

たまには「何もしない日」を書き込みたい

最近、自分に課したルールがある。それは「何もしない日」をあえて手帳に書き込むこと。白紙ではなく、“完全オフ”と明記する。意外とそれだけで、気持ちが少し楽になる。だけど、電話一本でその予定は簡単に破られる。書き込んだはずの「何もしない日」が、「緊急登記」にすり替わる。自分の予定の軽さが、情けないようで切ない。

仕事の予定は入れても自分の予定は入れづらい

他人の予定を優先して、自分の時間を後回しにしてしまう癖は、司法書士という職業柄なのかもしれない。依頼者の人生に関わる案件を扱っている以上、「その日は無理です」と言うのが難しい。そうして気づけば、自分の通院や散髪すら“隙間時間”に押し込んでいる。予定とは本来、自分の人生の地図のはずなのに、誰かの道しるべに使われているようで、ふとむなしくなる。

「空いてますか?」と聞かれたら断れない性格

「いつが空いてますか?」という質問には、昔から弱い。空いていると言ったら最後、そこで相談を受けることになる。それがわかっていても、「空いてない」とは言えない。結局、相手に合わせて予定を入れてしまうのだ。自分が後回しになることに慣れてしまっている。優しさではなく、ただの習性だ。気づけば、それがストレスの温床になっていたりもする。

優しさと断れなさの境界線があいまいになる

「優しいですね」と言われることはあるが、自分ではそれが本当に優しさなのか、自信が持てない。もしかしたら、ただの“断れない人”にすぎないのかもしれない。人の頼みを断ることが怖い。信頼を損ねるのが怖い。でも、そんなふうに予定を詰め込んで、自分を犠牲にし続けていたら、本当に壊れてしまう気がする。優しさと自己犠牲は、紙一重だ。

手帳に書いた予定がプレッシャーになる瞬間

予定を立てることは本来、安心のための行為だったはずなのに、いつしか「やらなければならないこと」のリストに変わっていた。手帳を見るたびに、ため息をつく。まだ何もしていないのに疲れている。予定があること自体がプレッシャーになっている。これはもう、ただのスケジュールではなく、義務の塊だ。

書いたはいいが、その日が近づくたびに憂鬱になる

「○月○日 面談予定」と書いた日が近づくにつれ、憂鬱になっていく。人に会うこと自体が疲れるというより、「うまく応えられるか」「何か漏れはないか」といった不安が先に立つ。準備しなければと焦るあまり、他の予定にも手がつかない。予定が一つあるだけで一週間が支配される。そんな毎日に、ちょっとだけ嫌気が差している。

予定を見るだけで疲れてしまう矛盾

「スケジュール管理ができる人は仕事ができる人」なんて言葉があるが、手帳がぎっしりなことが“仕事ができている証”だとは思えない。むしろ、見るだけで疲れてしまうなら、それは破綻の兆候かもしれない。予定をこなすだけの毎日は、意志のない自動操縦のようなもの。大事なのは、「自分がどうしたいか」という意思を、手帳に書けているかどうかだ。

予定を減らす勇気が欲しい

本当に必要なのは、予定を増やす技術ではなく、予定を減らす勇気かもしれない。埋めるのは簡単、でも空けるのは怖い。仕事を断ること、休むこと、自分のために使う時間を持つこと。そのどれもが、思っている以上にハードルが高い。でも、手帳のどこかに“希望”を書き込むには、まず“余白”が必要なのだ。

キャンセルすることで得られるものもある

予定をキャンセルするのは悪いことのように思えるけれど、時にはそれが最良の選択になることもある。体調が悪い日、気持ちが沈んでいる日、そんなときに無理して会っても、いい仕事にはならない。相手にも失礼だ。だからこそ、キャンセルすることで得られる休息や、立て直す時間は、仕事の質を守るためにも必要な“戦略”なのだと感じる。

「予定を入れない」という予定を作る

予定を入れないという決断は、実はとても能動的な行為だ。何も予定がない日=何もできない日ではない。その日は、自分の体調や気分で何をするかを選べる日でもある。天気がよければ散歩に行ってもいいし、雨なら映画を観るのもいい。そんなふうに、「流れに身を任せる自由」こそ、今の自分には必要なのかもしれない。

手帳の中にある自分を取り戻す

司法書士という仕事は、誰かの人生を陰で支える役割だけど、それが自分の人生を削ることになってはいけない。手帳は単なる業務表ではなく、自分の人生の記録でもある。だからこそ、仕事だけでなく「好きなこと」「会いたい人」「行きたい場所」も、少しずつ書いていきたい。手帳の片隅に、自分の輪郭を取り戻すために。

「この時間は仕事をしない」と決めてみる

一日の中で、たとえ30分でも「仕事をしない時間」を作ること。それだけで心の余裕がまるで違ってくる。最近は、事務所にコーヒー豆を置くようになった。昼下がりにコーヒーを淹れるその時間だけは、スマホもPCも触らない。そんな小さな習慣が、手帳のすき間に生まれる「静けさ」を作ってくれる。些細なことだけど、それがけっこう大事だと思っている。

自分の機嫌は自分で取るしかない

誰かがご褒美をくれるわけでもないし、モテるわけでもない。だったらせめて、自分の機嫌は自分で取るしかない。甘いものを食べてもいいし、仕事帰りにちょっとだけ寄り道をしてもいい。自分で自分を労うことを忘れたら、きっとこの仕事は続かない。予定に追われる日々の中で、そうやってほんの少しでも「自分を大切にする時間」を確保していきたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。