朝の書類チェックから始まった違和感のなさ
その朝も、いつものように事務所で書類のチェックから一日が始まった。届いた郵便物を確認し、申請書を見直し、判を押す作業。ルーチンワークの連続だけど、だからこそ見落とす危険も潜んでいる。今回の件は、そんな「当たり前」のなかで起きた。依頼人の名字を、ずっとある読み方で覚えていた。最初にそう読んでしまったが最後、誰にも訂正されず、訂正することもなく、すべてが進んでいった。違和感なんて、まったくなかったのだ。
見慣れた名字だからこそ思い込みが起きた
その名字は、よくある漢字の組み合わせだった。たとえば「小鳥遊」とか「月見里」みたいな特殊な読み方だったら慎重になるけど、今回の依頼人の名字は「高梨」だった(仮名)。「たかなしかな?」と初回で思い込み、それで終わった。まさか「こうりん」さんだったとは。正直に言うと、そんな読み方があるなんて知らなかった。人間、知っている範囲でしか考えられないって、こういうときに思い知らされる。
初回面談でハッキリ言われなかったありがたさと怖さ
初回の面談でも、「たかなしさんですね」とこちらが言ってしまったとき、依頼人は特に否定しなかった。ニコニコと頷いてくれたのが、むしろ印象に残っている。「もしかしてあの時、気を遣って黙ってくれてたのかもな……」と思うと、穴があったら入りたくなる。きっと、後から言い出しにくくなったのだろう。私自身も、誰かに名前を間違えて呼ばれて、それを訂正するタイミングを逃した経験がある。あの時の気まずさと、今の依頼人の気持ちが重なって見えた。
「〇〇様」と呼び続けた数週間の記憶
登記のやり取りが数週間に渡ったため、事務所内ではずっと「たかなしさん」と呼んでいた。事務員にもそう伝えていて、電話をかけるときも郵送する封筒にも、当然のように「たかなし様」と記載。依頼人からの反応が穏やかだったせいで、私たちの中で“それが正解”になってしまっていた。今考えると恐ろしい。あまりにもスムーズに流れていたからこそ、どこにも疑問を挟む余地がなかった。
郵送書類も名刺も全部「間違った名前」で送付
名刺にも、「たかなし様」と直筆でメモしていた。郵送書類の宛名もすべてその通りにしていた。依頼人がサインしてくれた書類にすら、自分の名字のフリガナは記載されておらず、こちらの勘違いはそのまま進行してしまった。これがもし、裁判所関係の書類だったらと思うと、冷や汗が出る。幸い登記申請書の記載自体は正式な表記だったため、致命的なミスには至らなかったが、信用の問題は別だ。
事務員さんもずっと同じ読み方をしていた
事務員さんも私と同じように「たかなしさん」で通していた。電話をかけるとき、来客時の受付時、何度もその名前で呼びかけていた。私の言い方を信じて、そのまま口にしていたのだ。事務員を責めるつもりは全くない。むしろ、自分の確認ミスを周囲にまで拡散してしまったことに対して、申し訳なさが募るばかりだ。
誰も気づかないからこそ起きるミスの怖さ
このミスは「誰も気づかなかった」というより、「誰も気づけなかった」ミスだ。確認する機会がなかったのではなく、確認しようという意識自体が薄れていた。思い込みとは怖いもので、「それ以外はない」と無意識に決めつけてしまう。司法書士として、これは本当にあってはならない初歩的な落とし穴だと思い知らされた。
小さな思い込みが積み上がるという失敗学
今回の件を通じて、「小さな思い込み」の怖さを改めて感じた。名字一つの読み違いが、事務員にも伝わり、数週間の業務に影響を与え、信頼にも関わる。しかも、指摘されるまで気づかない。失敗は大きな出来事よりも、こういう日常の“ズレ”から生まれる。そういう失敗学を、身をもって学ばされた気がする。
真実が明かされた瞬間のあの無音の時間
事件が起きたのは、すべてが終わったあとの法務局でのやりとりだった。職員さんがふと口にした「こうりん様ですね?」の一言に、「え?」と固まってしまった。そしてその瞬間、すべての記憶が巻き戻されるように流れ込んできた。まさかずっと、間違った呼び名で接していたとは。あの瞬間の無音は、今も頭に残っている。
法務局で指摘された「読み」からの衝撃
提出書類に問題はなかったが、職員さんが口頭で名前を確認したときに初めて、本来の読みが「こうりん」さんだったことが明らかになった。「あれ?読みって…」と一応聞いてみると、「あ、はい、『こうりん』です」とあっさり言われた。頭をハンマーで叩かれたような衝撃。私は、思わず「」とその場で何度も頭を下げた。
依頼人の優しさに泣きたくなった
後日、電話で改めてお詫びをしたとき、依頼人は「いえいえ、よくあることですから」と言ってくれた。その言葉が余計につらかった。こんなに丁寧に接してくれていたのに、自分はその名前すら正確に認識できていなかった。名前というのは、その人自身を象徴する大切なもの。その読み方を間違えるということが、どれだけの失礼に当たるか、改めて身に染みた。
「気にしてませんよ」それが一番つらい
「気にしてませんよ」と言われると、余計に気になってしまう。気にしていない“ふり”をしてくれているだけかもしれないし、本当に気にしていなかったとしても、こちらの失態は事実だ。相手の優しさが、むしろ自分の未熟さを突きつけてくるようで、何とも言えない気持ちになる。自分だったらどうだったろうか。やっぱり気になったと思う。
自分の名字がずっと違って呼ばれてたらと想像する
自分が「いながき」なのに、ずっと「いながみ」と呼ばれていたら……たぶん最初の1回は笑って許せる。でも、2回、3回と続いたら、「この人は私のことをちゃんと見てないな」と感じてしまう気がする。名前って、それくらい繊細なものだ。改めて、その重みと責任を感じる出来事だった。