その家にはもう一人いた

その家にはもう一人いた

奇妙な依頼人

雨の午後にやってきた未亡人

灰色の雲が垂れ込める午後、事務所のドアがギィと音を立てて開いた。黒いレインコートに身を包んだ中年の女性が、濡れた傘をたたみながら入ってきた。手には古びた権利書のコピーが握られていた。

「亡くなった夫の居住権を登記してほしいんです」と、彼女は低い声で言った。無表情なその横顔には、何かを隠しているような影があった。

配偶者居住権――数年前に法改正で導入された制度だが、現場ではまだ混乱も多い。私は深くため息をついた。

登記簿の不在者

存在しない居住者

私は登記簿を確認するため、法務局のオンラインシステムにアクセスした。だが、どうにも様子がおかしい。亡くなった夫とされる人物の名が、そもそもこの不動産の登記簿に存在していなかったのだ。

「もしかして、これ他人の名義じゃありませんか?」と聞くと、彼女は一瞬、動きを止めた。やはり何かを隠している。

いや、それとも彼女自身が本当の権利者なのか? だがその割には、提出された資料が妙に曖昧だった。

サトウさんの冷たい指摘

故人の意思を巡る論理の穴

「これ、遺言の書式がちょっと変ですね。しかも公正証書なのに証人が一人足りません」――背後からサトウさんの声が飛んだ。椅子をくるりと回した彼女は、私よりもずっと冷静に資料を見つめていた。

「もう、またうっかりしてたんですか?それに、この筆跡、どこかで見た覚えありません?」と鋭い一言。私は思わず冷や汗をかいた。

「えーっと……いやまあ、似てる気も……しないでも……」と曖昧にごまかす私に、サトウさんはため息をついた。

権利書に隠された名前

重ねて貼られた委任状

古びた権利書の裏側には、別の名前が重ねて貼られた委任状で隠されていた。少し剥がすと、下には全く別人の名前が記されていた。どう見ても亡夫ではない。

「この家、本当は別の人のものだった可能性がありますね」――私が言うと、サトウさんは小さくうなずいた。「それにしても、なぜ彼女はそれを知りながら来たのか……」

一枚ずつ剥がれていく嘘。まるでキャッツアイの一場面のように、真実は絵画の裏に隠れているのだ。

深夜の訪問者

影のように現れた「もう一人」

その夜、事務所の前に一台の軽自動車が停まった。ドアをノックしたのは、よれたスーツの初老の男だった。彼は名乗らず、ただこう言った。「あの家は、私の弟が所有者なんです。兄が亡くなったのは……二年前です」

え?兄?弟?話が見えない。私は混乱しつつも、話を聞き続けた。「私は相続人として登記しようとしたんですが、先に誰かが居住権を主張していて…」というのだ。

やれやれ、、、また複雑な案件に巻き込まれたようだ。

家と嘘と過去と

相続人でもない配偶者の秘密

未亡人と名乗った女性は、実は内縁関係の人物だった。法的な配偶者ではなく、したがって配偶者居住権も認められない。だが彼女はその立場を利用して、権利を主張しようとしていたのだった。

「愛してたんです。本当に……」と彼女は語ったが、それと登記は別の話だ。現実はいつだって、感情に冷たい。

それにしても、なぜこんな回りくどい方法を? それは彼女の心に残る「形見」を守るためだったのかもしれない。

真実の所有者

遺言状に記された最後の決断

調査の結果、本当の所有者は兄ではなく、弟の名義で遺言が残されていたことが判明した。それは直前に変更されたもので、未亡人の名もサトウさんの予想通りどこにもなかった。

「これが法というものですね」と私は静かに彼女に伝えた。彼女は何も言わず、ただ黙って席を立ち、雨の中へと消えていった。

過去のぬくもりは記録に残らない。ただ、風のように去っていくだけだ。

司法書士としての私の出番

決して晴れない心の空模様

正しい手続きを踏み、弟の名で登記を終えた。だが、私の胸の内は晴れなかった。正しさがすべてを救うわけではない。そのことを、改めて思い知らされた一件だった。

「サトウさん、コーヒー入れてくれない?」と頼むと、「自分で淹れてください」ときっぱり。冷たい対応が妙に心地よい。

私はそっと窓の外を見つめた。今日も天気はぐずついている。やれやれ、、、また明日も忙しくなりそうだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓