書類を片付けると気分が晴れると思っていた
机の上に散らばった書類をきれいにファイリングし終えたとき、一瞬だけ達成感があった。けれど、すぐに胸の奥が妙に重くなった。何もかも片付いたのに、気持ちはどこかモヤついたまま。よく「片付けは心の整理に繋がる」と言われるけれど、少なくともこの日の自分にはあてはまらなかった。物理的な整理と精神的な整理は、似ているようでまったく別物だと痛感した瞬間だった。
片付いたのは机だけで心はザワついたまま
あの日、午前中は登記完了書類の山を一気に処理した。次々に届く報告書や委任状、本人確認書類をチェックし、ファイルに綴じていく作業に没頭した。ふと顔を上げると、机の上は見事に片付き、まるで新年度を迎える職場のような清々しさだった。けれど、心はまったく晴れなかった。むしろ「自分は何のためにこれをやってるんだろう」と、漠然とした不安が浮かんできた。
「これで気持ちもリセットできる」なんて幻想だった
前の晩、なんとなくモヤモヤして眠れなかったから「とにかく仕事を片付ければ気分が変わるはずだ」と思い込んでいた。でも実際は違った。整理された書類たちは、確かに形にはなったけれど、自分の気持ちはどこにも行き場がなかった。書類をまとめて満足するのは「やること」による達成感であって、「心の余裕」とは別の話だと気づかされた。
一枚の登記完了書類より重たい感情たち
法務局から戻ってきた登記完了書類。依頼人にとっては「目的達成」の証かもしれない。でも、自分にとっては“やっと一つ終わった”というだけ。その裏で、書類を受け取ったあとに依頼人が見せる笑顔と、それに反して何も残らない自分の内面。このギャップが地味に堪える。笑顔は見せるけれど、どこか心が置いてけぼりになっていた。
仕事の山を片付けるたびに、自分が置いてけぼりになる
仕事を終えれば終えるほど、なぜか寂しさが増していく。達成感はあるのに、充実感がついてこない。事務員も定時で帰って、事務所にひとり残される時間がふえると、どんどん“やりきった感”が空虚に変わっていく。片付いた机を前に、「今日も誰ともちゃんと話さなかったな」と気づく。書類は進むが、心は前に進まない。
忙しさは誤魔化しの道具になる
気づけば、「忙しいから」でいろんなことを片付けている。友達の誘いも断る理由にできるし、誰かと食事に行くのも後回しにできる。恋愛?そんな暇あるかよと自分に言い聞かせる。でも本当は、忙しさにかまけて自分の感情と向き合うのを避けてるだけなのかもしれない。仕事が山積みであるうちは、心の穴も見なくて済むという逃げだ。
「やることがあるから寂しくない」と言い聞かせる日々
独身で、地元に帰ってきて司法書士をしている。誰かに心配されたくなくて、「仕事があるから寂しくないよ」と笑って話してる。でも本音は違う。帰っても誰もいない家に灯りをつけるとき、急に襲ってくる虚しさ。書類を抱えて走り回る自分の姿が、妙に滑稽に感じる瞬間もある。忙しさの中に孤独が潜んでいる。
ひとり事務所に残って思うこと
夕方6時を過ぎると、事務所の外の通りも静まり返る。事務員が帰ったあと、ひとりでキーボードを叩きながらふと手を止める瞬間がある。時計の針が進む音がやけに響く。誰にも話しかけられない静けさに、耳鳴りがするほどの孤独を感じる。自分で選んだ仕事だけど、選んだ先にこんな孤独が待っていたとは思わなかった。
誰にも言えない愚痴を机にぶつける
「また変更登記の添付書類が足りない」「お客さん、なんで郵送物を捨てちゃうの」……。こんな愚痴は、事務員にも言えないし、誰かに言ったところで共感されるものでもない。気がつくと、机をトントンと叩きながら、自分にだけ聞こえるようにボヤいている。声に出すことでしか処理できない気持ちが確かにある。
終電も気にせず働けるのが「強み」って何だ
よく周囲からは「一人だと自由でいいね」と言われる。でも自由って、何もないことの裏返しだったりする。終電を気にせず働けるのは、誰かが待ってるわけじゃないからだし、夕飯もコンビニで済む。何が自由で何が孤独か、その境目が曖昧になっていく日々。元野球部の体力で乗り切れても、気力はもうガス欠寸前だ。
元野球部のガッツもそろそろ限界かもしれない
高校時代、どんな練習にも耐えてきたつもりだった。だからこそ、どんなに大変でも踏ん張れるという変な自信がある。でも、精神的な疲れにはガッツだけじゃ太刀打ちできないと痛感する。身体は動いても、心がバテている。誰かに「頑張ってるね」と言ってほしいわけじゃない。ただ、心のモヤに気づいてあげる余裕が、自分にもほしい。
それでも片付け続ける理由
それでも、自分は明日も書類を片付けるだろう。心の整理にならなくても、やらなきゃいけないことは山積みだし、それをこなすことが自分の役割でもある。気持ちが追いつかなくても、前に進むことしかできない。もしかしたら、それが自分なりの「答えの出し方」なのかもしれない。
依頼人のために、ではなく自分の中の秩序のために
書類をきれいにファイルに収める行為は、もはや誰かのためというより、自分の秩序を保つための儀式に近い。バラバラのままではいられない性格だから、見えるものだけでも整えておかないと崩れてしまいそうになる。だからこそ、モヤがあっても手は止められない。書類の整理は、自分をつなぎとめる唯一の手段かもしれない。
モヤモヤに負けない小さな抵抗
「片付けたって、どうせ心は整理できないんでしょ?」と投げやりになった日もある。でも、それでも整理を続けるのは、自分なりの小さな抵抗だ。現実は変わらないかもしれないけれど、少しでも整えようとするその姿勢が、未来のどこかで自分を助けてくれると信じたい。たとえ今日モヤモヤしたままでも、それでいい。