ちょっとだけ泣いてもいいですか
司法書士という肩書きの裏で、誰にも言えない疲れを抱えている自分がいます。仕事は社会的には「先生」と呼ばれ、信頼される立場にありますが、その信頼の重さに潰されそうになる瞬間があります。40代半ばを過ぎ、独り身で仕事に打ち込む毎日。事務所のドアを開けるときに「今日も何とかやらないと」と心で呟きながら、心の奥底では「ちょっとだけ泣かせてくれ」と思う日もあるのです。
朝のルーティンが重たく感じる日もある
いつも通りのはずの朝の支度。それが妙に重たく感じる日があります。寝起きからして身体がだるくて、スーツを着るのもネクタイを締めるのも面倒。そんな日に限って、予定は詰まりまくりで、書類の山が机の上で待ち構えています。通勤途中の信号待ちで、車の窓から見えた高校生の笑い声がやけに眩しく感じました。「あんな頃もあったな」とぼんやり思い出しながら、今日はなんとか乗り切るしかないかとアクセルを踏むのです。
靴を履く動作さえ面倒だった朝のこと
以前、とくに疲れが溜まっていたある朝、玄関で靴を履こうとした瞬間、膝がガクッと折れそうになったことがありました。別にどこか悪いわけじゃない。ただ「また今日もか…」という気持ちの重さが身体に出ただけ。それでも履かなきゃならない靴。仕事を休むわけにはいかないし、依頼者との約束もある。たった5秒ほど玄関で座り込んで、深呼吸して、何もなかったように出勤しました。たまにはこうして、立ち止まりたくなる朝もあるのです。
事務所のドアを開ける手に力が入らなかった
その日、事務所のドアノブを握る手に力が入りませんでした。「この扉の向こうには今日も問題が山積みだ」と思うと、どうにも気持ちが前に進みません。けれど、そのまま戻るわけにもいかず、顔に作り笑いを貼り付けて入室。「おはようございます」と事務員に声をかけるけれど、心は晴れないまま。なんとか業務を開始するものの、頭がぼんやりして、午前中は空回り。そんな日があっても、誰も責めてこないけれど、自分自身が一番責めているのです。
頼られることが重荷に感じる瞬間
司法書士の仕事は、依頼者の人生の大事な局面に関わることが多く、当然ながら信頼される立場です。でもその信頼が、時にはとても重く感じることがあります。「先生、なんとかしてください」と言われるたび、「任せてください」と答えながら、心の中では「誰か俺を助けてくれよ」と叫んでいることもあります。そういう感情を打ち明ける相手がいないからこそ、さらに辛くなるのです。
誰かの人生の一部を背負うというプレッシャー
登記や相続、遺言に関わる業務では、人の死や家族の事情に深く踏み込むことになります。誰かの最後の想いを形にする責任。うまくいけば「ありがとう」と言ってもらえる。でも一歩間違えば信頼を失いかねない。過去には、たった一つの確認不足でクレームになりかけたこともありました。そのときはなんとか謝罪で乗り切れましたが、あの胃がねじれるような感覚は、今でも忘れられません。
「先生」と呼ばれることのしんどさ
「先生」と呼ばれるたびに、自分の中で少しずつプレッシャーが積み重なっていきます。最初は誇らしかった呼称が、いつの間にか鎧のように重くなっていたのです。まるで、自分は弱音を吐いてはいけない存在になったような錯覚に陥る。それが続くと、気づけば誰にも本音を話せなくなっていました。「先生」と呼ばれながら、実は誰かに「よく頑張ってるね」と声をかけてほしいだけなのかもしれません。
背中で「大丈夫」と言い続ける疲労
事務所の中でも、依頼者の前でも、「大丈夫です、問題ありません」と言い続けてきました。でもそれって、本当の意味では自分に言い聞かせていたのかもしれません。たとえば、登記がギリギリになった案件で、なんとか段取りを整えて完了した日の夜。達成感よりも、「またか…」という疲労感の方が強く残る。背中で「大丈夫」を演じ続けるには、やっぱり限界があると感じるのです。
それでも明日も現場に立つ理由
それでも僕は、明日も朝7時には起きて、事務所のドアを開ける準備をします。なぜかと聞かれれば、「仕事だから」としか言えないけれど、その中にはほんの少しの意地もあるし、依頼者の「助かったよ、ありがとう」という言葉が支えになっているのも事実です。ちょっとだけ泣いて、ちょっとだけ落ち込んでも、やっぱり現場に戻るのは、司法書士という仕事が、きっと自分の居場所なんだと思っているからです。