朝から何かがおかしいと思ったんだ
その日は妙に静かな朝だった。朝食のパンをかじりながら、なんとなく胸騒ぎのようなものがあった。司法書士の仕事に「胸騒ぎ」なんて言葉は似合わないけれど、不思議と予感って当たるもので。この仕事をしていると、書類の山を前にして、どこかに引っかかってる気配を感じることがある。まるで野球の守備位置で、ボールが来そうな予感がするのと同じだ。その日は登記識別情報の入った封筒が、机の上に見当たらなかった。それがすべての始まりだった。
机の上にあるはずの封筒が見当たらない
いつもは、左の棚の一番上に「要確認」ラベルを貼った青いフォルダがある。そこに、今日提出する登記識別情報も入れておいた。…はずだった。けれど、いくら見てもない。前日確認した気がする。でも「確認した気がする」は記憶の幻で、本当にやったかは自信がない。こんな時、自分の年齢を痛感する。昔は書類の位置まで鮮明に覚えていたのに。45歳、独身。話しかける人もいない朝に、焦りだけが部屋の中を埋め尽くしていった。
いつもの場所に置いた記憶だけはある
「あのフォルダに入れた」「そこに封筒を置いた」。それははっきりしている。問題は、なぜそこにないのかだ。以前、同じように「入れたはず」が空振りだった時は、コピー機のトレイの上に置き忘れていたことがあった。だから、まずはその辺から確認する。でも今回に限って、それも空振り。棚も机の下も、書類の隙間も全部チェックした。でも、封筒だけがない。仕事柄、こういう時に冷静でいるのが大事なんだろうけど、正直、冷や汗しか出てこなかった。
もしかして捨てた?いやそんなはずは…
ゴミ箱をひっくり返しながら、自分の手元が信じられなくなっていく。「まさか封筒ごと…?」と自問しながらも、あの封筒の質感は覚えている。薄い緑がかった紙に、太めの封印シール。捨てたとは思いたくない。でも、見つからない以上、そう疑いたくもなる。自分が捨てたのか、事務員さんが勘違いしたのか、それとも誰かが持っていったのか。いや、そんなに来客なんてない。やっぱり自分なのか。気づけば、朝のコーヒーは冷めきっていた。
焦りの中で鳴り続ける電話
封筒が見つからないまま、業務開始の時間になった。電話が鳴り始める。いつもなら「はい、お電話ありがとうございます」でスッと出るが、今日はそれどころじゃない。電話が鳴るたびに心拍数が上がる。もしかして依頼者からの催促か? 役所からの確認か? そんなふうに勝手に悪い想像ばかりが浮かぶ。結果的には、ほとんどは営業電話や問い合わせ。でも、電話を取るたびに現実に引き戻され、机の上を見つめ直す自分がいた。
「至急でお願いします」ばかりが刺さる
午前中だけで3件、「至急対応お願いします」の連絡が入った。そのたびに「今それどころじゃないんですよ」と言いたくなる気持ちを飲み込む。でも、司法書士の仕事に“待った”は効かない。至急が重なれば、心も身体も先に壊れる。しかも、焦って探すほど見つからない。まるで試験中に答えが出てこない感覚。頭が真っ白になる。いや、これはもう試合でノーアウト満塁のピンチみたいなもんだ。誰か助けてくれ。
いや今こっちが至急なんですけど
クライアントからの「至急お願いします」は、僕にとって「火に油を注ぐ」言葉だった。書類が見つからない状況で、急ぎの仕事を抱えるほど、精神的に追い詰められていく。けれど、そんな弱音は吐けない。司法書士って、黙って責任を背負う仕事だ。だから今日も、電話に出る声だけは平静を装う。でも内心は、「こっちこそ至急なんだよ!」と叫びたい気持ちを抑えていた。
事務員さんの「そんなのありましたっけ」で沈黙
封筒が見つからないことを事務員さんに伝えると、ちょっと首をかしげて「そんなの見た記憶ないですね」と返された。悪気はない、分かっている。責める気なんてこれっぽっちもない。でも、その瞬間、言葉が出なかった。だって、自分の記憶があやふやなだけに、頼みの綱がふわっと消えた感じだったから。頼りになるのは結局、自分のあやふやな記憶だけ。そう思うと、背筋がすっと冷えていった。
責める気なんてないけどちょっと凹む
彼女の反応が悪かったわけじゃない。むしろ普通だった。でも、その「普通」がグサっとくる時がある。自分だけが空回りしてるような気がしてくる。独りで抱え込んでるような感じ。仕事ってそういうもんだって分かってはいるけれど、ちょっとした一言が心に刺さる日もある。今日はそれだった。別に泣くほどじゃないけれど、「俺、疲れてんな」ってつぶやきたくなった。
二人で探しても見つからない時の空気
結局、事務員さんと一緒にもう一度探した。事務所の引き出し、コピー機のトレイ、ゴミ箱、封筒置き場、全部確認した。でも、ない。沈黙の中、書類の重なる音だけが響いていた。その空気が重い。互いに何も言わないけれど、「本当にないんだな」という諦めがにじんでいた。気まずいわけじゃない。でも、重い。こういう時間って、後からじわじわ効いてくる。
気まずさってこういう時に生まれる
言葉が足りないわけじゃない。むしろ言葉が多すぎると余計な誤解を生む。だからこそ、何も言わない空気のほうが厄介だ。相手も悪くない、自分も悪くない、でも結果だけが最悪。そんなとき、気まずさは静かに生まれる。こうして、今日もまた、何も進まない午前中が終わっていった。
結局自分で全部抱え込む羽目になる
昼を過ぎても見つからず、再発行の手続きが頭をよぎる。でも、依頼者に「無くしました」なんて言えるわけもなく。結局、自分でケリをつけるしかないのがこの仕事。仕事を信頼してもらうって、つまりは「失敗しない」ことを前提にされてるってことだ。だから、どこかで転んでも、それを見せるわけにはいかない。地味だけど、司法書士ってそういう職業だ。
「無くしたのは自分」という覚悟
事務員さんのせいにするのは簡単だ。でも、封筒を管理してたのは自分。「置いたはず」っていう記憶が曖昧なら、責任を押し付けるのは違う。そう考えるようになってから、僕はたいていのことを「自分が悪い」で処理するようになった。ある意味、そのほうがラク。でも、孤独でもある。誰にも責められない代わりに、誰にも助けてもらえない。司法書士って、そんな孤独に慣れていく職業なのかもしれない。
原因探しより対処優先がしんどい
本音を言えば、原因が知りたい。なぜ封筒がなくなったのか。でも、依頼者にとっては原因なんてどうでもいい。結果的に手続きが済むかどうか。それだけが重要なんだ。だから僕らは、「なくなったから探します」じゃなくて、「なくなったからリカバリします」って即答しないといけない。ミスは許されないけど、ミスの原因を丁寧に説明する時間もない。それが一番しんどいところだ。
こういうとき独り身は不利だなと感じる
家に帰ってからも、頭の中は登記識別情報のことばかり。誰かに「こんなことがあってさ」と話せたら、少しは気が楽になるんだろう。でも、誰もいない。部屋に帰っても、テレビの音と冷蔵庫のブーンという音だけが耳に残る。ああ、こういうとき、やっぱり独り身って不利だなって思う。結婚すれば良かったなんて、普段は思わないのに。