がんばってるねと言われた日が支えになっている

がんばってるねと言われた日が支えになっている

忙しさの波に呑まれそうになって

司法書士という職業は、世間的には「安定していて信頼される仕事」と思われがちだ。でも実際の現場はというと、書類の山、問い合わせの嵐、トラブルの予感が漂う電話のコール音。事務員さんが一人いるとはいえ、細かい判断や手続きは結局自分で背負うことが多い。ひとつの登記が通るまで、神経を張り詰めた綱渡りのような毎日だ。正直なところ「やってられない」と思う日もある。そんな時、ふと「何のためにこんなに働いてるんだっけ」と立ち止まってしまうことがある。

朝から電話 昼は役所 夜は書類

「今日は少しゆっくりできそうだな」と思った朝に限って、電話が鳴る。しかも一件じゃ済まない。たいていは急ぎの依頼か、書類の不備の指摘。午前中で精神力が半分削られる。そして午後は役所。待たされ、たらい回しにされ、何度も同じ説明を繰り返す。夕方にようやく戻ってきたと思えば、机の上には未処理の書類。自分の段取りの甘さもあるが、毎日が「思ってたより忙しい」の繰り返し。昔は野球部で体力にも自信があったけれど、今は気力の方がすり減る感覚の方が強い。

「仕事があるだけありがたい」と思い込む癖

よく「仕事があるだけありがたいよ」と自分に言い聞かせてしまう。もちろん無職よりはいい、確かにそうだ。でも、それが常に自分の本音かと言われると少し違う気もする。たまには「もう無理です」と言ってしまいたい日もある。でもそんな弱音を吐ける相手もなかなかいないし、言ったところで状況が変わるわけでもない。「ありがたい」と思いながらも、どこかで自分に我慢を強いてる感覚が、じわじわと心を蝕んでいくのを感じることがある。

感謝と疲れが混ざるときに来る自己否定

「自分はまだまだ頑張りが足りないのかもしれない」。そうやって自分を責めることが多い。感謝の気持ちもある、でもしんどい。それが同時にやってくるから、心がねじれる。自分の仕事に誇りはあるけれど、完璧じゃない。誰にも迷惑かけず、誰にも助けを求めず、黙々と淡々とこなせる人間じゃない。だけど、そんな自分を否定してしまいそうになる瞬間が一番しんどい。実はそういうときこそ、「がんばってるね」と言われたかったりする。

あの一言が刺さった日

数年前、手続きに苦戦していたある案件。依頼者とのやりとりも長引いて、正直「この人にはもう信用されていないかもしれない」と感じていた。その最後の面談の日、手続きが無事終わり書類を手渡したとき、その方が静かに言った。「がんばってるね、ありがとう」。その一言が胸に刺さった。誇張でも何でもなく、その帰り道、コンビニの前で本当に泣きそうになった。誰かにちゃんと見てもらえていた、そう感じたのは久しぶりだった。

意外な人からの「がんばってるね」

その依頼者は年配の女性で、決して多くを語る人ではなかった。何度もやりとりを重ねたけれど、どこか距離がある印象だった。そんな人から突然かけられた「がんばってるね」は、想像以上に重みがあった。家族でも恋人でも友人でもない、ただの依頼者。だからこそ、その言葉には何か純度の高いものがあった。世間からの評価とは違う、個人としての存在をちゃんと見てくれた気がして、その瞬間、自分が司法書士であることに少し救われた気がした。

それだけで涙が出そうになる自分がいた

普段は気を張っているし、誰かに頼ることが少ない。でもその一言には心が緩んだ。ずっと張っていた糸がふっとほどけるような感じ。「そんなにしんどかったんだな」と、自分自身のことをそのとき初めてちゃんと認められた気がした。人に褒められることが少ない職業だからこそ、その瞬間の価値は大きい。あの時、たしかに泣きそうになった。誰にも見られない場所で、こっそり自分の存在が少し肯定されたような気がして。

あの時のあの一言が今も背中を押してくれる

今でもしんどくなったとき、あの「がんばってるね」の声を思い出す。録音していたわけでもないし、声のトーンすら記憶は曖昧。でも、その言葉の存在だけは心にしっかり残っている。小さな声だったけど、大きな支えだった。誰かにちゃんと認められた記憶があるだけで、また一歩踏み出せるときがある。自分もそんな一言を、誰かに渡せるようでありたいと思う。

司法書士という仕事の見えにくさ

士業と呼ばれる職種の中でも、司法書士の仕事はとくに地味だと思う。表舞台に出ることは少なく、手続きの影で動くことが多い。ミスは許されず、成果は数字に表れにくい。だからこそ、やりがいが見えづらい。身近な人にも仕事の内容を理解してもらいにくく、説明すればするほど伝わらないもどかしさもある。それでもこの仕事を続けているのは、ほんの少しでも誰かの役に立てたと思える瞬間があるからだ。

地味で目立たず でも責任だけは重い

例えば登記一つとっても、間違えれば不動産の権利関係に影響が出る。登記が終わっても、間違いが見つかれば責任は全部こちらにのしかかる。「ただの事務仕事でしょ?」と言われることもあるが、その一言がどれだけ軽率か、現場を知っていれば分かるはず。たとえ無名でも、たとえ陰で動く立場でも、責任感は弁護士と変わらない。むしろ孤独さの分、重みは強く感じることすらある。

評価も賞賛もほとんど届かない現実

何か大きな成果を上げたときでも、表彰されるわけでもないし、ネットでバズるわけでもない。依頼者の「ありがとう」で終わる。それがすべて。でもだからこそ、たまに届く「がんばってるね」は、砂漠で見つけた水のように沁みる。日常の中にひっそりと置かれたやさしさが、何日も何年も心のなかで灯り続けるような、そんな力を持っていると感じる。

それでもやめなかった理由

何度か「もうやめようかな」と思ったことはある。でもやめなかったのは、やっぱり誰かの人生の一部分に関わっている実感があったからだ。小さな手続きでも、その先には人の生活がある。そう思うと、雑に扱えないし、簡単に手放せない。あの日の「がんばってるね」が、いつのまにか「また明日もやってみようか」という自分への言葉に変わっていた気がする。

今の自分が誰かの「がんばってるね」になれるか

昔はもっと無愛想だったと思う。でも今は、少しずつ言葉をかけるようになった。事務員さんにも、お客さんにも、郵便局の人にも。誰かの一日に、ちょっとでもあたたかさを残せたら、それでいいんじゃないかと思うようになった。「自分が欲しかった言葉は、自分で誰かにあげてもいいんだ」。そんなふうに思えるようになったのも、あの一言のおかげだ。

言葉を飲み込むことが多くなった

「がんばってるね」って、意外と簡単に言えない。自分が言われて嬉しかったはずなのに、いざ口にしようとすると恥ずかしくて飲み込んでしまうことが多い。でも最近は、少しずつ言えるようになってきた。ほんの一言でも、誰かの支えになると知っているから。感情を表に出すことは苦手だけど、言葉にして伝える努力はしていきたいと思っている。

だからこそ小さな声をかけたいと思う

日々の中で、すれ違う誰かに「大丈夫ですか」とか「お疲れさまです」と声をかけることがある。昔の自分なら考えられなかったけど、今はそれが自然にできるようになった。あのとき自分が救われたように、今度は自分が誰かを少しでも救える存在でありたい。誰かにとっての「がんばってるね」になれたら、それ以上のやりがいはない。

自分にできるのは 無理しすぎないこと

そして何より大事なのは、自分に対しても「がんばってるね」と言ってあげることだと思う。誰より自分が、自分の頑張りを一番よく知っている。だから無理しすぎる前に、「今日はここまででいい」と許してあげることも大切だと思う。自分を労わることができて初めて、他人にも優しくなれる気がする。そうやって少しずつ、心の中の灯りを絶やさずにいられるようにしたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。