仕事終わりに向かう先がスーパーだけという現実
司法書士という職業は、思った以上に人と関わりが多いようでいて、実は「孤独な仕事」でもあります。一日中パソコンに向かって登記のチェック、法務局とのやりとり、依頼人への説明…終わってみれば、誰かとちゃんと向き合った時間なんて、実は数分程度。そんな日の終わりに、「今日も終わったな」と思って向かう先が、決まってスーパーだというのは、我ながら少し虚しい気もします。でも、あの蛍光灯の明かりと、流れる音楽に、なんだかホッとしてしまう自分がいるのも確かです。
事務所を出ると心がスッと軽くなる瞬間
夕方6時を過ぎて、ようやく今日の業務が一段落。事務員に「お疲れさま」と声をかけて戸締まりをし、事務所を出るあの瞬間、なぜか肩の荷がふっと軽くなる気がします。誰かに文句を言われたわけじゃないし、トラブルがあったわけでもない。でも、目に見えないプレッシャーをずっと背負っていたような感覚があって、外に出た瞬間、ようやく「俺に戻れる」気がする。だけど、向かうのは飲み屋でもジムでもなく、近所のスーパー。結局、癒しを求めているんですよね。
誰にも話しかけられずに終わる一日
司法書士は話す仕事、なんて言われることもあるけど、実際はメールと書類とにらめっこが中心。今日一日、誰かとまともに会話したか…と振り返ってみても、せいぜい電話での要件確認か、事務員との必要最低限のやりとりだけ。笑った記憶もなければ、心が動いた瞬間もない。そんな日が何日も続くと、自分がどんどん無色透明になっていくような気がしてきます。
コンビニではなくスーパーに向かう理由
仕事帰りに寄る場所として、選択肢は他にもある。コンビニとか、ドラッグストアとか。でも、不思議と足が向くのはスーパーなんです。コンビニは便利だけど、あの明るさと無機質さがなんだか寂しい。スーパーには、値引きシールを貼る店員さんがいたり、夕飯を選んでるおばちゃんがいたりして、生活の匂いがする。誰かと関わってる感じがしないまま一日が終わる日には、その空気に少しだけ救われている気がします。
買い物カゴの中に映る孤独な習慣
スーパーで手に取るのは、だいたい決まった商品ばかり。冷凍うどん、半額のお惣菜、あと野菜ジュース。ふと買い物カゴを覗いたとき、自分の生活がすべてここに詰まってるようで、ちょっと哀しくなる。誰かのための食事じゃないし、栄養バランスも無視。とりあえず今日を終えるためのアイテムたち。でも、それすらも「明日も頑張ろう」と思えるきっかけになってるんだから、もう笑うしかありません。
おつとめ品を選ぶ手元が少し悲しい
値引きシールって、不思議な魅力がある。別に節約したいわけじゃないのに、つい探してしまう。そして見つけたときにちょっとだけ嬉しくなる。でも、それを手に取っている自分の手元を見て、「俺、何してんだろう」と思うこともある。昔、野球部だったころの自分が見たら、どう思うだろうか。たぶん「地味に生きてんな」と笑うんじゃないかな。
レジの人の声が唯一の会話になる夜
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」──それが、今日一日で一番やさしい言葉だった、なんて日もあります。レジの店員さんと目が合って、ふと心がじんわりする。向こうはマニュアル通りだろうけど、こちらはそのひと言で、少しだけ心が報われる。悲しいようで、ありがたいようで、どちらかというと…切ない、かな。
元野球部だった俺の今の帰り道
高校時代、毎日泥だらけになってボールを追いかけてた。仲間と笑い合い、悔し泣きして、青春をぶつけ合っていた。でも今は、誰ともぶつかることもなく、静かにスーパーの通路を歩いている。あの頃の自分が今の俺を見たら、少しガッカリするかもしれない。けど、これはこれで悪くない。無理やりそう言い聞かせて、袋を片手に帰路につく。
スーパーで感じる小さな幸せとやるせなさ
「癒し」と言ってしまえばそれまでだけど、あのスーパーの空気には、どこか“許されてる”感じがある。誰にも見られてない、評価されない、何も求められない。だからこそ安心できる。でも、その安心が日常になると、逆に心細くなってくる。「俺、これでいいのか?」と、自問自答が始まる。答えはいつも出ないけれど、翌日もまた、同じ場所に立っている。
値引きシールに今日もありがとうと思ってしまう
スーパーに行くと、なぜか心が落ち着く。そして、値引きされたパックを手に取って、心の中で「ありがとう」とつぶやいている自分がいる。そんな日々が続くと、スーパーが自分にとっての“カウンセリングルーム”のように思えてくる。ちょっとだけ元気をもらって、ちょっとだけ前向きになれる場所。でもそれって、なんか違う気もしていて…。自分でも矛盾を抱えている。
一人分の総菜が並ぶ食卓と冷えた夜
帰宅して、買ってきたお惣菜を並べる。一人分の量、一人分の味、一人分の寂しさ。テレビをつけるけど、心が入ってこない。かといって音がないと、それはそれでキツい。箸を進めながら、「このままでいいのか」と思うけれど、すぐに「でもどうせ明日も仕事だしな」と打ち消してしまう。自分を励ますのは、もう慣れた。
明日もまたここに来るんだろうかという予感
「今日だけ」「たまたま」──最初はそう思っていたはずなのに、気づけば週5でスーパーに通っている。レジの人の顔も覚えてしまった。明日もまた同じ時間に、同じ惣菜を手に取っている気がする。それが嫌だと言うわけじゃない。でも、それしかないのかと思うと、ちょっとだけ、やるせない。
司法書士という仕事の疲れ方
専門職であり、責任もある。やりがいだってある。そう思って選んだ仕事だけど、実際には「淡々と消耗していく作業」になってしまっている時期もある。お客さんに喜んでもらっても、こっちは心ここにあらず。書類が山積みになればなるほど、自分の存在がどこか薄くなっていくような錯覚にとらわれる。だからこそ、日常の中に癒しが必要なのかもしれません。
登記申請と人間関係の狭間で削られていく心
登記というのは、正確さとスピードのバランスが求められる仕事。しかも、その成果は外からは見えにくい。お客様から「ありがとうございました」と言われても、その裏でどれだけ神経をすり減らしたかは誰にもわからない。法務局とのやり取りも一筋縄ではいかず、担当者によって対応がまるで違う。事務所に戻る頃には、もうクタクタです。
依頼人のありがとうが刺さらなくなる時
本来なら嬉しいはずの「ありがとう」も、疲れが溜まっていると、どこか空虚に響くことがあります。感謝されてるのに、心が動かない。それは自分が悪いのか、感情がすり減ってしまったのか。ふと考えてしまう。でもそんな時でも、「この仕事をちゃんとやらなきゃ」と自分に言い聞かせて、机に向かう自分がいます。
忙しさと空虚さのバランスが崩れたまま
仕事は山のようにある。なのに心は満たされない。日々をこなしているのに、どこか空っぽ。このバランスの悪さに、時々息が詰まりそうになる。でも、「誰かの役に立ってる」と思える瞬間がある限り、もう少しだけ踏ん張れる。そうやって今日も、明日へバトンを渡していくのかもしれません。
それでも今日もスーパーに救われている
本当は飲みに行ったり、誰かと話したり、そういう時間があればいいのかもしれない。でも、今の自分にできる癒し方は、スーパーのあの静かな空気に身を置くこと。誰にも迷惑をかけず、誰にも気を使わず、自分を一瞬だけ解放できる場所。だからきっと、今日もあの店に寄るんだろうと思います。
何も期待しない場所だからこその安心感
スーパーには、勝手に期待されたり、評価されたりすることがない。だから安心できる。誰も私の肩書を知らないし、何かを背負う必要もない。司法書士としてではなく、ただの一人の人間として存在できる時間。そういう場所が一つでもあるのは、実はとてもありがたいことなのかもしれません。
誰とも張り合わなくていいという自由
仕事の場では、知らず知らずのうちに誰かと比較されている。成績や効率、対応力、そして年収。でも、スーパーではそんなこと一切ない。カゴに何を入れようが、誰も気にしない。その自由が、何よりも心をほぐしてくれる。誰とも張り合わないでいい場所、それが今の私には一番の救いです。
もしかしたら誰かも同じ気持ちで歩いてる
同じ時間に同じようにスーパーに来ている人たち。目を合わせることはないけれど、もしかしたら、あの人も今日一日を精一杯生き抜いて、今ここにいるのかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ、孤独が和らぐ気がします。誰かの隣じゃなくても、同じ空気の中にいることだけで、救われることもあるんですね。