書き方がわかりませんから始まる混乱と焦りと全部後回しになる日々

書き方がわかりませんから始まる混乱と焦りと全部後回しになる日々

書き方がわからないという言葉が口癖になるまで

「書き方がわかりません」——それは決して新人だけのセリフじゃない。むしろ年数を重ねてしまった今のほうが、その言葉を胸の中で何度も繰り返している。登記の申請理由、報告書の一文、メールの出だしすら止まってしまう日がある。なのに誰にも「わかりません」とは言えない。肩書きがある分だけ、プライドと責任の重みがのしかかる。若いころは勢いでどうにかなっていた。今は勢いもなく、立ち止まると再起動に時間がかかる。そんな毎日のなか、気づけば「書き方がわかりません」が心の中の口癖になっていた。

いつからこんなに書類が怖くなったのか

書類を前にしてフリーズする自分に気づくと、何とも情けない気持ちになる。学生時代のレポートや野球部の報告書なんて、締切ギリギリでも書けたのに。司法書士になってから、書くものの意味が重すぎる。言葉ひとつで依頼人に不安を与えてしまうし、登記が却下されれば信用問題になる。だからこそ一文字一文字に慎重になりすぎて、逆に何も書けなくなる。自分で自分を追い込んでいるのかもしれない。怖くて手がつかない、それが今の自分の現実だ。

書類は書くものじゃなくて読まされるものになった

昔は自分の言葉で書いていた。でも今は、過去の事例や判例、ひな形、先輩の文例、ネットのテンプレート……参考資料に囲まれて、まるで正解探しの旅に出ているようだ。読んで読んで、結局どれが今のケースに合うのかわからなくなって、気づけば何も進んでいない。書類を書くというより、正しい言い回しを探してページをさまよっている状態。自分の言葉で書けなくなった瞬間から、書類は「読むもの」になってしまった。

頭の中はぐちゃぐちゃだけど締切は近づいてくる

「あれもまだ」「これも後で」そんなメモがどんどん積み上がっていく。頭の中で優先順位をつけようとしても、感情が邪魔をしてくる。「あの依頼者の顔を思い出すと、先にやったほうがいいかも」とか、「これは気を遣うから後回しにしよう」とか。そうこうしている間に、簡単だったはずの書類すら、どこから手をつけていいかわからなくなる。気づけば午後。頭の中は混乱しているのに、時計の針は待ってくれない。

ひとまず書いてみようと思っても最初の一行が出ない

清書前の草案すら書けないことがある。メモを開いて、手を動かそうとしても、最初の一行で固まる。語尾が気になる、言い回しが浮かばない。試しに書いてみたら、違和感ばかりが残って、全部消してしまう。結局、何も残らない。事務員さんがチラッと見て「進んでますか?」なんて言ってきた日には、笑顔がひきつってしまうほど。

形式にとらわれると手が止まる

業界には「こう書くべき」という暗黙の形式がある。だからこそ、それに合わない表現を思いつくと、「これは違うかもしれない」と不安になる。本来は自由に考えていいはずなのに、型にはまらないと「間違っている気がする」と思ってしまう。この「型」があること自体は悪くない。でも、型に支配されて自由を失うと、一歩も前に進めなくなるのが厄介だ。

正解を探して回り道してしまう自分

書類ひとつに、まるで人生を賭けるような時間を使ってしまう。もっと要領よくやればいいと頭ではわかっていても、いざ目の前にすると「これでいいのか」が気になって止まる。完璧主義なのか、ただの不器用なのか。気づけば一日が終わっていて、「今日も何も進まなかったな」とため息をつく。正解なんてないのに、正解を求めて迷い続けている。

混乱しているのに周りは落ち着いて見える不思議

自分の中では混乱の渦の中にいるのに、周囲は穏やかに見える。事務所の外では鳥の声がして、郵便屋さんは変わらぬテンポでやってくる。時間は平常運転なのに、自分の中だけが火事のように慌てている。余計に取り残された気がして、また焦る。その繰り返しが地味に効いてくる。

事務員さんのほうがよっぽど冷静な件

自分が頭を抱えてうなっている横で、事務員さんは黙々と書類をチェックしている。その姿を見て、「俺、いらないんじゃないか」とすら思うこともある。ふとした会話で「先生、最近ちょっと疲れてません?」なんて聞かれると、図星すぎて何も言えない。こっちは毎日が崩壊寸前なのに、それに気づかれたくなくて空元気で乗り切ろうとしている。その姿勢こそが、もう疲れている証拠なのに。

こっちが混乱してるときに限って相談が来る

不思議なことに、自分が一番パンクしているときに限って、やたらと電話が鳴るし、面談の希望も入る。少しでも空気を感じ取ってくれるなら…と思うが、そんな都合のいい話はない。依頼者にとっては今日が人生の一大事。自分の混乱などお構いなしだ。そのギャップに、妙な孤独を感じる。

自分の焦りに気づいていないふりをする疲労感

心のどこかでは「これはマズいな」と思っている。でも、それを認めると崩れそうで、あえて平静を装う。書類が進まない理由を「今日はちょっと他の案件が多くて」とごまかし、結局何も終わっていない。焦っている自分を見せられない職業でもある。でも、見せないことで余計に自分を追い詰めていることにも、実は気づいている。

結局全部後回しにしてしまう日々の連鎖

書けない、進まない、決まらない。そんな状況が続くと、自然と「後回し」の癖がついてくる。しかも一度後回しにしたものは、なぜか二度と手がつかなくなる。次の日には別の緊急案件が来て、結局後回しにしたまま月末になっていたりする。まさに負のスパイラル。

明日やろうは永遠に終わらないタスク地獄

「これは明日でいいか」その一言が、仕事を腐らせる始まりだ。明日は明日でバタバタしているし、急ぎの案件が割り込んでくる。だから「明日やろう」と思ったものほど、永遠に終わらない。そして、ふとした瞬間に思い出してゾッとする。まるで埋もれた地雷を踏んだような感覚。「あれ、やってなかった……」という冷や汗が何度も襲ってくる。

土日に溜め込んだ結果の月曜が重すぎる

金曜日に「来週やろう」と思ったものは、週末にどんどん膨らむ。そして月曜の朝、やらなきゃいけないことが山積みで待っている。出勤前からすでに気が重く、机に座った瞬間から「ああ、これ全部俺がやるんだな」と現実を突きつけられる。誰にも頼めないし、誰も手伝ってくれない。それが個人事務所の厳しさでもある。

無理しても結局中途半端に終わる現実

土壇場になって無理やり仕上げようとする。でも、無理しても内容が薄くなる。自分で読み返して「これじゃダメだ」と思ってしまう。だからまた手直しして時間がかかる。堂々巡りだ。結局、時間をかけても納得できるものができず、精神的な疲労だけが残る。やる気はあるのに、成果が伴わない。そんな毎日が、じわじわと自信を削っていく。

書ける人と書けない人の差は何か

この年齢になって、「俺って文章下手なんじゃないか」と思う日がある。でも周りにはサラッと書ける人もいる。何が違うんだろう。センス? 経験? それとも覚悟? 書ける人の文章を見ると、無駄がなくて洗練されているように見える。真似したいけど、真似できない。差を埋めるためには、もうちょっと自分のやり方を疑ってみる必要があるのかもしれない。

頭の中の構造が違うのかと諦めかける

たまに「これは才能の差だな」と思ってしまうことがある。でも、そうやって諦めることで安心しようとしている自分にも気づく。実際には、要点を整理する力とか、過去の事例のストックとか、そういう地味な積み重ねの差なのかもしれない。努力の差を「才能」という言葉で片づけるのは、ちょっと卑怯だな、とも思う。

他人のフォーマットに頼ると余計混乱する

「あの人の書き方を真似してみよう」そう思ってテンプレートを使っても、途中で破綻することがある。理由は簡単、自分の状況と違いすぎるからだ。他人の言葉で書いた文章は、自分の口から出ない。だから読み返すと違和感がある。誰かのやり方を借りるのは悪くないけれど、自分の文脈に合っていなければ、逆に混乱を招くだけだ。

メモが溜まっても文章にならないもどかしさ

メモ帳はいっぱいになっている。ふと思いついたことをすぐに書き留めるようにしているから、断片的な情報は山ほどある。でも、それが文章になるかというと、まったく別問題だ。構成を考えて、流れを作って、読ませる形にするのが難しい。そのギャップがもどかしくて、また手が止まる。そしてまた「書き方がわかりません」と心の中でつぶやく。

書けなさすぎて笑えてくる夜もある

深夜、誰もいない事務所で、一人うなりながら書類と向き合っている。そんなとき、ふと我に返って笑ってしまう。「俺、何やってんだろうな」って。真剣だからこそ、書けない自分に対して笑える瞬間がある。笑ったあとに少しだけ気持ちが軽くなって、「とりあえず一行だけでも書こう」と思える。そんな小さな前進が、明日への希望になるのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。