自分だけが取り残されているような気がしてしまう夜
たまの夜、事務所で一人残業を終えて家に帰る途中、ふとスマホを開いた瞬間に心がざわつく。SNSには、キラキラした日常を切り取った投稿が並ぶ。旅行、結婚、子ども、パートナーとのディナー。どれも美しい写真ばかりで、幸せの匂いが画面から漂ってくるようだ。だけど、見るたびに「自分は一体何をしているんだろう」と胸が重くなる。別に羨ましがるつもりなんてなかったはずなのに、自然とため息が漏れてしまう夜がある。
SNSを開いて3秒でため息が出る
通知が来て、何気なく開いたインスタのストーリーズ。たった数秒で、心がもやっとする。誰かが仲間と飲みに行っていたり、結婚式のスピーチをしていたり、子どもの誕生日を祝っていたり。「おお、楽しそうだな」と思いながら、なぜか少し傷つく自分がいる。特にきついのが、自分より後に開業した知り合いが「家族で海外旅行」とか投稿してるとき。比べるつもりはないけど、「あれ、俺何やってんだっけ?」って急に空しくなる。
誰かの結婚報告に勝手に傷ついてしまう
一番グサッとくるのは、やっぱり結婚の報告だ。昔少し気になってた女性が「このたび入籍しました」と笑顔で指輪を見せてる写真とか、本当にやめてくれと思う。お祝いの言葉を書き込むべきなんだろうけど、指が止まる。それどころか、自分の中の劣等感が騒ぎ出して、「なんで俺はずっと一人なんだ」なんて方向に思考が転がっていく。祝福できない自分が一番情けなくて、それがまたつらい。
「おめでとう」が言えない自分が嫌になる
だからといって、相手に何か非があるわけじゃないし、ただ幸せな報告をしただけ。でも、それに素直に「おめでとう」と言えない自分が、もっと嫌だ。性格が歪んできたのかとすら思ってしまう。そんな自分の小ささに、後から後悔する。「いいね」も押さず、無視した画面を見つめながら、どこにもぶつけようのない思いだけが残る。寝る前に見てしまった夜は、眠りも浅くなるのが常だ。
投稿の裏にある現実を忘れてしまうとき
SNSに上がる写真や文章がすべて真実の幸福を映しているわけじゃないことは、頭では理解している。みんな良いところだけを切り取って投稿してるし、実際の苦労や葛藤なんて映らない。でも、そんな理屈は、感情のざわつきを消してはくれない。人はどうしても、表面的な輝きに反応してしまう。特に、疲れていたり、孤独を感じているときはなおさらだ。
幸せそうな写真は演出だとわかっていても
笑顔の集合写真も、楽しそうなカフェのランチも、フィルターがかかっていて当たり前。それでも、心が落ちているときには、それがまるで現実そのもののように感じてしまう。自分だけが停滞していて、他の人は前に進んでいる。そんな錯覚に襲われて、スマホを閉じたあともしばらく胸の奥がモヤモヤしている。冷静になれば「SNSなんてそんなもんだ」と思えるのに、波に飲まれるときは、なかなか戻ってこれない。
比較する癖が直らないのは性格なのか習慣なのか
司法書士という仕事柄、どうしても他人と比べてしまう場面が多い。登記件数、紹介の数、地域での評判、果ては事務所の見た目まで。そうした中で日常的に競争をしていると、プライベートでも比較癖が抜けなくなるのかもしれない。「人は人、自分は自分」と思えるようになりたいと何度も思ってはいるけど、なかなかその境地には達しない。人の幸せを素直に受け止められるようになるには、もっと図太くならないといけないのかもしれない。
見ない選択をしたほうが穏やかに過ごせるかもしれない
最近は、あえてSNSを見ないようにしている時間をつくるようにしている。通知も切って、寝る前はスマホを枕元に置かない。最初は「情報に遅れるんじゃないか」と不安だったけれど、意外と何も困らない。むしろ、知らなくていいことを知らずに済むぶん、心が穏やかになる。「見ない」って、消極的な選択のように見えるかもしれないけど、自分を守るには充分な手段だと感じている。
独身で地方の事務所にこもる現実と向き合う
結局のところ、SNSがつらいのは、自分の現実があまりにも地味だからかもしれない。地方の司法書士事務所で朝から晩まで働いて、土日も半分は仕事の準備。恋愛も結婚も遠ざかり、家に帰れば一人。誰にも邪魔されずにテレビを見て、時々ネットスーパーでビールを頼む。そんな日常が、SNSの世界とはあまりにかけ離れていて、ギャップに疲れるのかもしれない。
事務所とコンビニと家の往復で終わる日々
最近は運動不足もあって、車でコンビニに寄るのが唯一の外出だったりする。事務員さんも定時で帰るし、気づけば一日誰とも話さなかった、なんて日もある。仕事が嫌なわけじゃないけれど、人としての彩りが乏しくなってるような気がして、それがSNSを見ると強調されてしまうのかもしれない。誰とも会わない日、カップラーメンをすすりながらスクロールするSNSほど、虚しいものはない。
週末の焼き肉写真が一番こたえる理由
週末の夜、家族連れやカップルでにぎわう焼き肉屋の写真が流れてくると、胸がきゅっとなる。自分だって焼き肉は好きだけど、一人で行くのもなんだか気が引ける。あのジュウジュウと焼ける音と笑い声は、自分の生活にはない音だ。昔は野球部の仲間とよく行ったな…と思い出して、余計に寂しくなる。誰かと食べる飯は、やっぱり一番うまいんだと痛感する。
誰かと比べず自分を保つのは本当に難しい
結局、他人と比べないで生きるなんて、簡単にはできない。でも、比べるならせめて過去の自分と比べようと思うようになった。少しでも成長できていればよしとする。SNSを見て落ち込むなら、見なければいい。自分にとって何が心地よいのかを優先して、自分のペースで生きればいい。そう言い聞かせながら、今日も通知を切って眠りにつくことにする。
共感してくれる誰かがいれば少し楽になる
こんなことを正直に話せる場所はなかなかない。でも、同じように感じている人は、きっと他にもいるはずだ。SNSに疲れて、投稿すらやめた人。幸せそうな写真に嫉妬してしまう自分を責めている人。そんな人たちに、この記事が届いたらいいなと思う。人の幸せを素直に喜べないときがあっても、それで人間失格ってわけじゃないと思いたい。
たまには愚痴っていいと思いたい
仕事でも人生でも、いつも前向きにいられるわけじゃない。司法書士だって、人間だ。愚痴もこぼすし、ひがむことだってある。完璧な自分なんて目指さなくていい。少しでも気持ちが楽になるような言葉を、自分にもかけてあげたい。たとえば「今日もよくやった」とか「そんな日もある」って。それだけで、ちょっと救われる気がする。
同じように感じている人は意外と多い
実際、事務所仲間と飲みに行くと、みんな似たような話をしている。「またSNSでキラキラした投稿見てやる気失せた」とか「もう見るのやめた」とか。表には出さなくても、みんな思うところはあるのだと知るだけで、少しほっとする。共感って、ただの言葉じゃなくて、生きるための力なんだと思う。
「自分だけじゃない」と思える場所の必要性
孤独な仕事だからこそ、「自分だけじゃない」と思える時間や場所が必要だ。それがこうした文章だったり、誰かのつぶやきだったりするかもしれない。誰もが自分のペースで、無理せずに過ごせるような社会であってほしい。そんなことを思いながら、また明日も地味に、でもたしかに司法書士として生きていく。