結婚しないんですかと聞かれても笑えなくなった日

結婚しないんですかと聞かれても笑えなくなった日

結婚しないんですかと聞かれても笑えなくなった日

「結婚しないんですか?」。何気ない会話の流れで、もう何百回と聞かれてきたフレーズ。昔は笑ってごまかしていた。でも、最近はその笑顔すら作れなくなっている自分がいる。45歳、司法書士、独身。地方で事務所を営み、日々必死に生きている。ただ、それだけじゃ「普通」じゃないらしい。仕事に打ち込んでいるつもりだけど、世間はどうもそうは見てくれない。「結婚してない=何か欠けてる人」そんな空気に、知らず知らず傷ついている。

軽い雑談のつもりなんだろうけど

相手は悪気があるわけじゃないとわかっている。でも、その言葉の破壊力はなかなかのものだ。「結婚しないんですか?」という問いかけは、まるで「あなた、ちゃんと生きてますか?」と聞かれているような感覚になる。世間話として出されるそれに、いちいち過剰反応する自分が面倒くさいとも思う。でも、刺さるものは刺さる。しかもそれが、コンビニのレジや銀行の窓口、何気ない場所で突然飛んでくるからなおさらたちが悪い。

コンビニのレジで言われたひと言

ある日の夕方、仕事帰りに寄ったコンビニで、おばちゃん店員に言われた。「毎日お弁当ですね〜。奥さんに怒られないんですか?」。その瞬間、手が止まった。レジ袋を結ぶ手がぎこちなくなる。何でもない会話のように見えて、僕の胸にはずっしりと重い。「いや、独りなんで…」と返した後の気まずさと、何とも言えない空気がいまだに忘れられない。あれ以来、その店には行っていない。

「そろそろいい歳ですよ」なんて余計なお世話

ご近所の人に挨拶を交わすたび、話題にされるのが「ご結婚は?」。この年齢になれば仕方ないのかもしれないけれど、まるで人生の最終通知みたいな響きに聞こえることがある。特に正月やお盆に顔を出す親戚の集まりでは、「そろそろいい歳だよね」とか、「お見合いとか考えないの?」と、もうお決まりのコース。笑って流すにも限界がある。「余計なお世話だ」と言い返したい気持ちを抑えるのに、どれだけの気力が要るか。

結婚できない理由を語るほど余裕はない

「したくないんじゃなくて、できないんです」。本当のところを言えば、そう言いたい。でも、それを丁寧に説明する場面なんて、そうそうないし、する気力もない。忙しい毎日に追われて、自分のことなんて後回し。誰かと出会って関係を築く以前に、まず今日を生きることで手一杯なのが現実だ。時間も体力も、そして心の余裕も、すべて仕事に持っていかれてしまう。恋愛とか結婚とか、それ以前の話だ。

忙しすぎて人間らしい時間がない

朝は7時過ぎには事務所に入って、夜は早くて21時。クライアントの都合、役所のタイミング、突発的な登記の依頼に追われ、気がつけば一日が終わっている。土日だって完全に休める日は少ない。こんな生活の中で、誰かとの時間を丁寧に重ねるなんて、今の僕には無理だ。忙しいのはありがたい。でも、人としての営みが削れていく感じがしてならない。たまに休みができても、何をしていいかわからなくなる。

今日も夕飯はカップ麺と缶コーヒー

事務員が帰った後、ひとりで資料をまとめながら食べる夜食は、だいたいカップ麺と缶コーヒー。気づけばそれが定番になってしまった。料理をする気力もなければ、誰かと食べる予定もない。テレビでは家族団らんのCMが流れているけれど、自分にはまるで縁のない世界に思える。別にそれが不幸だとは思わない。でも、「こうなるつもりじゃなかった」という気持ちは、心のどこかにずっと残っている。

土日休みじゃないと出会いすらない

世の中の婚活イベントや出会いの場は、たいていが土日開催。僕のような仕事のサイクルでは、そもそもその土台に立つことすら難しい。昔、無理して日曜に参加した合コンでは、クタクタの顔で「司法書士って何する人?」と聞かれ、うまく答えられずに終わった。休みの日に無理して外に出るより、事務所で書類を片づけている方が気が楽になってしまう。出会わないことに慣れていく、そんな人生になってしまった。

元野球部のくせに恋愛だけは三振続き

昔は、もう少しうまくやれると思ってた。高校時代は野球部で、仲間もいて、試合に勝てば皆で喜んで。そういう「青春っぽいもの」を一応は経験してきた。でも、恋愛は別だった。告白すらまともにできたことがない。グラウンドでは声を張れるのに、気になる子の前では言葉が詰まる。あれから30年、少しはマシになったかと思いきや、むしろ下手になっているかもしれない。

高校時代の青春がピークだった説

今思えば、あの頃が一番輝いていたのかもしれない。毎日グラウンドで汗を流し、仲間と過ごし、試合に全力で挑んでいた。恋愛よりも白球を追うことが楽しかった。人生のピークがそこだったとすれば、それ以降はずっと下降線だったのかもしれない。社会に出てからは、結果を出すことばかり求められて、自分の気持ちを出す場なんてどんどん減っていった。恋なんて、する余裕もなかった。

声をかける勇気も気力ももう残ってない

いいなと思う人がいても、もう自分から声をかける勇気なんてない。若い頃なら勢いでいけたかもしれない。でも今は、「どうせ相手にされないだろうな」と先に諦めてしまう。自信がないわけじゃない、と思いたいけど、実際には過去の失敗や年齢の重みがのしかかってくる。恋愛は戦いだと誰かが言っていたが、そもそも戦場にすら立てていない気がする。ひとりで生きると決めたわけじゃない。でも、誰かと生きる未来が見えない。

結婚してないことが欠点にされる社会

結婚してないからって、何がいけないのか。でも、どこに行っても「家庭は?」と聞かれ、「まだ独身なんです」と答えると、どこか気まずい空気が流れる。それだけで判断されるような場面もある。とくに地方では、まだまだ「結婚=一人前」という空気が根強い。仕事ができていても、どこかで「でも独身なんでしょ?」と評価を下げられるような感じがしてならない。

仕事はしてるけど、それだけじゃ足りないらしい

朝から晩まで働いて、依頼も丁寧にこなしている。それなりに感謝もされている。なのに、「それだけじゃだめ」と言われている気がしてくるのはなぜだろう。結婚して子どもを育てて、家を建てて、そういう「王道」を歩んでいないと、どこか肩身が狭い。人並みに頑張ってきたはずなのに、人並みじゃない扱いを受けるのが、いちばん堪える。

「独身=寂しい人」の決めつけがきつい

もちろん寂しい夜はある。でも、それだけじゃない。自分なりに満たされる瞬間もある。自由だし、誰にも縛られずに生きられる良さもある。けれど、独身=寂しい、かわいそう、という決めつけには、いまだに慣れない。そう思われないように、無理して明るくしてしまう自分がいる。それがまた疲れるのだ。

それでも司法書士を続ける理由

結婚してようが、してなかろうが、僕は僕の人生を生きている。辛いことは多い。でも、この仕事をしていなければ、もっと空っぽだった気がする。誰かの大切な場面に関われる司法書士という仕事。それだけで、今日もなんとか机に向かえる。誰にも理解されなくても、自分だけは、自分の人生を認めてやりたいと思っている。

誰かの人生に少しでも関われること

登記の書類はただの手続きかもしれない。でも、それにはそれぞれの物語がある。家を建てる人、新しい商売を始める人、相続で悩む人。そんな誰かの節目に立ち会える。それは、結婚とは違うけど、確かなつながりだ。今日も、誰かの役に立てたなら、それでいいと思える瞬間がある。それが、この仕事の一番の報酬かもしれない。

「ありがとう」のひと言に救われている

長い書類の説明が終わった後、お客さんがぽつりと「助かりました、ありがとう」と言ってくれる。それだけで、眠れない夜も少しだけ報われる気がする。誰かと生きることはできていないかもしれない。でも、誰かの人生に寄り添えている。そう思えるから、今日も独身のまま、また一日を重ねていく。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。