朝一番の訪問者
「これ、登記できますか」
小さな声でそう言ってきたのは、やや猫背の中年男性だった。手にしていた封筒の中には、遺産分割協議書と戸籍の束、そして一枚の謄本の写し。
案件としてはよくある相続登記——のはずだった。
共有名義の謎
その謄本には土地が二分の一ずつ、兄妹で共有名義になっていると書かれていた。だが依頼人は言う、「妹はもう20年前に亡くなってまして、今は私一人です」。
話を聞く限り、相続登記がされておらず、名義はそのまま。だが登記簿を見ると、どうも帳尻が合わない。
やれやれ、、、また厄介な予感がする。
相続登記の依頼
依頼人の話では、今回の登記は兄である自分の単独名義に変更したいとのこと。
「妹には子もおらず、私がすべて引き継ぐということで、家族で話はついておりますので」
その割に、肝心の妹の相続関係説明図が添付されていない。説明を求めると、「ちょっと役所に確認してみます」と濁された。
名義人が一人足りない
謄本の乙区欄に、気になる記述があった。以前抵当権が設定されていたようだが、すでに抹消済み。
問題はその前、設定時の連帯保証人欄に、別の名前があったことだ。「川井陽子」——依頼人の妹の名前ではない。
誰だこれは。記録には書かれているが、依頼人の資料には一切登場しない。
もう一つの遺言書
事務所に戻ると、サトウさんがポツリと言った。
「先生、この川井って人、住民票に除票が残ってましたよ。死亡は去年。あと、こちらの役所で保管されていた自筆証書遺言、開封されてたみたいです」
彼女が差し出したそのコピーには、「川井陽子に全財産を遺贈する」という文言。被相続人の名は、依頼人の母だった。
サトウさんの違和感
「この人、つまり依頼人の妹じゃないんですか?」と訊くと、サトウさんは首を横に振った。
「違いますね。戸籍をたどったら、妹さんは平成十年に死亡してて、その後川井さんが養子縁組されてます。いわば“後継養子”って感じですね」
いったん死亡した妹の代わりに、新たに娘として迎えられた存在。そして遺言で指定されている。これは偶然か。
消された乙区の記録
もう一度謄本をよく見ると、過去に何度か更正登記が行われていることに気づいた。
地目変更や地積更正はいいとして、ひとつだけ不可解なのが「登記名義人の氏名訂正」。
まるで、誰かの存在を「修正」したような雰囲気があった。
地方の役所に眠る古い謄本
かつて司法書士として汗水流した登記官の手書き記録が、役所の古い帳簿にまだ残っていた。
そこには「川井陽子」の名が、昭和の終わり頃に補助者として書き加えられていたが、数年後に×印で抹消されていた。
何があったのか——それを知る者はいなかったが、そのタイミングと現在の登記簿の整合性が一致していた。
サザエさんじゃあるまいし
登記官の記録は、ときにドラマよりドラマチックだ。妹が死に、母が後継として他人を迎え入れ、しかしその事実を兄は黙殺しようとした。
いや、それとも知らなかったふりをしていただけか。まるでサザエさんの世界で波平が三人いるような混乱ぶりだった。
人間関係という名の登記簿、そこに記された名前は時に裏切りよりも冷酷だ。
登記原因証明情報の不備
再提出された登記原因証明情報の中に、不自然な日付のずれがあった。
被相続人の死亡日と、遺言の日付、それに養子縁組の届け出日。順番が逆転している。
どうやら依頼人は、母が亡くなったあとで養子縁組を「なかったことに」しようとしたようだ。
やれやれ、、、このパターンか
結局、僕ができるのは、事実を登記簿の上に正しく積み重ねることだけ。感情や思惑はさておき、記録は記録だ。
依頼人には再提出を求め、内容に不備があれば補正通知を出すだけ。
やれやれ、、、こういうときばかりは、元野球部の熱血魂が役に立たない。
元野球部の勘が働いた
それでも何かがひっかかった。養子縁組があった年、法定相続分ではない遺贈。
ふと思いついて、母の元・勤務先に連絡を取ると、そこには数枚の感謝状が飾られていた。その中に「川井陽子」の名もあった。
どうやら、母は最期まで陽子さんを「実の娘」として接していたようだ。
意外な裏切り者
結局、裏切っていたのは、依頼人自身だった。
妹が死んだあとの母を支え、老後の介護をしてきたのは陽子さん。遺言も、それに基づいた遺贈も、すべては自然の流れだった。
それを「無視」しようとした兄——その証言だけが、登記簿から消されようとしていたのだった。
失踪者の真実
川井陽子の住民票は、死亡によって除票となっていた。死亡届を出したのは、町内会長だったという。
彼女には家族がなく、遺言による遺贈先も特定されていなかった。
唯一の希望だったのは、登記簿に自らの名前が残ることだったのかもしれない。
解決の代償
結局、依頼人は登記の申請を取り下げた。
「まぁ、そこまで言うなら、それでいいです」
捨て台詞のように言い残して去っていった背中には、どこか疲労と諦めがにじんでいた。
それでも日常は続く
「先生、次の予約、10分前です」
サトウさんの淡々とした声が現実に引き戻す。コナンくんのように「真実はいつもひとつ」なんて言いたくなるが、
現実はもっと複雑で、泥臭い。そして僕らはまた、記録と証明の海に潜っていく。