それでも話しかけられるのが苦手なまま仕事している
司法書士という仕事柄、日常的に人と接する機会は少なくない。それなのに、どうして自分はこんなにも「話しかけられること」に不安を感じてしまうのか。依頼者とのちょっとしたやりとりや、役所の窓口での一言にも、頭の中が真っ白になることがある。事務員さんとの会話すら、うまく返せないときがあるから困る。仕事上の説明や書類の説明はそれなりにできる。でも、何気ない雑談や、挨拶の一歩先みたいな言葉のやりとりが、とにかく苦手だ。返せなくて気まずくなって、その後もその場面ばかり思い出してしまうのだ。
昔は野球部だったけど会話はずっと苦手
学生時代、僕は野球部だった。グラウンドでは声を張り上げ、仲間と掛け声を交わしながら汗を流していた。でも、あれは「型」が決まっていたからできたのだと思う。「よろしくお願いします!」「一本いこう!」といった定型の言葉だからこそ、声が出せた。今みたいに、自由に反応を返さなきゃいけない日常の会話は、ずっと苦手だった。部室での何気ない会話も、笑いについていけずに黙っていたことが多い。今もその頃の自分がそのまま残っていて、何か話しかけられると「正解の返し」を探そうとして固まってしまう。
法務の現場でも雑談力は求められる
登記手続きや相続相談など、司法書士の仕事は形式的な側面が強い。でも実際のところ、依頼者は「この人に頼んでよかった」と思えるような安心感を求めてくる。その安心感の大半は、意外と雑談の中にある。たとえば「雨ですね」「暑いですね」といった一言から入る会話のやりとり。そのあと、どう返すかで空気が和らぐか、さらに緊張が走るかが決まる。僕は後者のパターンが多くて、「あ、はい……」で終わらせてしまう。そこでまた自己嫌悪が始まり、「どうしてこんなに人としゃべるのが下手なんだ」と、グルグル考えてしまうのだ。
答えに詰まったあの瞬間を忘れられない
ある日、近くの不動産屋の担当者に「最近忙しいですか?」と聞かれた。なんてことない一言。でもそのときの僕は、疲れていたのもあって、とっさに返す言葉が出てこなかった。「まあ……それなりに……」と言った後、気まずい沈黙が流れた。相手も「ですよねー」と無理に笑ってくれたけど、あの空気は今も思い出すと胃が痛くなる。気まずさって、相手にも伝染する。その瞬間を何度も思い出してしまい、「あのとき、なんて返せばよかったんだろう」と夜中に考え込んでしまう。たぶん、こういう小さな傷が積もっていくのだと思う。
気の利いた返事ができない自分にイライラする日々
自分でも、こんなに会話が下手なのがもどかしい。周りの人たちは、軽やかに話をつなげて、場を和ませているのに、自分だけがどこか浮いているような気がしてしまう。会話がうまくいかない日は、帰り道にそのことばかり考えて、ため息をつく。人と接する仕事をしているのに、会話のセンスがない自分が情けない。丁寧に対応することを心がけてはいるけど、「それだけじゃ足りないのではないか」と思ってしまう。気の利いた一言が言えるだけで、どれだけ空気が軽くなるだろうと、何度も思いながら、今日もまたうまく返せずにいる。
気まずさを埋めるために話しすぎて後悔する
ときには、気まずさを感じたくないがために、無理して話し続けてしまうこともある。「沈黙が怖い」から、「とにかく何か言おう」として話が止まらなくなる。でもそういうときに限って、話の方向を見失ってしまい、「何が言いたいの?」と思われていそうな空気になる。話した後に、「あれ、ちょっと引かれてたかも」と気づいて落ち込む。言わなければよかったのか、それとももっと違う切り口があったのか……とにかく自分の話し方には満足できたことがない。話さなきゃ不安、でも話したら後悔。そんな堂々巡りだ。
事務員さんのフォローが心にしみる
うちの事務員さんは、会話が本当に上手い。僕が変な返しをしてしまったあとでも、さりげなく話題をつなげてくれる。たとえば、僕が「そうですね…」とだけ答えた場面でも、「そういえば〇〇さん、先週こんなこと言ってましたよね」と自然に流れを作ってくれる。まるでキャッチャーのように、暴投したボールをしっかり受け止めて返してくれるような感覚だ。元野球部としては、まさに頼もしいバッテリーだと思ってしまう。そんな事務員さんの存在に救われながら、なんとか会話の現場に立ち続けている。
でも本当は「沈黙」も悪くないと思いたい
最近少し思うのは、沈黙って、必ずしも悪じゃないんじゃないかということ。無理に話をつなげようとするよりも、じっくり考えてから返すほうが、かえって安心感を与えることもある。相手の言葉にちゃんと向き合っている証にもなる。あまりに沈黙が長いと気まずくなることもあるけど、短い間なら「この人は丁寧に考えているんだな」と受け取ってくれる人もいる。まだうまくはできないけど、「うまい返し」がすべてじゃないと、少しずつ思えるようになってきた。
それでも伝わることはあると信じたい
どんなにうまく返せなくても、こちらの真剣さや誠実さは、きっと言葉の外側からでも伝わる。たどたどしくても、一生懸命に返そうとしている気持ちは、相手の心に届くと信じたい。話しかけられて固まってしまう自分を責めるのではなく、そんな自分も含めて受け入れていくことが、たぶん一番大事なんだと思う。完璧な会話ができなくても、信頼は築ける。そうやって少しずつ、「会話が怖い自分」と折り合いをつけながら、生きていければいい。
「うまい返し」よりも誠実な対応を選ぶ理由
司法書士という立場上、曖昧な返事や適当な受け答えは許されない。だからこそ、「気の利いた返し」よりも、「誠実に向き合う」ことのほうが大事だと感じる。軽やかに受け流すよりも、時間がかかっても丁寧に答える。その姿勢が、信頼を生む。うまい返しはその場を和ませるかもしれない。でも、僕たちの仕事は信頼がすべてだ。その信頼は、話し方よりも、言葉の重みによって築かれると思っている。だからこそ、不器用な返しでも、誠意を込めることを忘れずにいたい。
同じように悩んでる誰かの救いになれたら
このコラムを読んでくれている人の中にも、会話に苦手意識を持っている方がいるかもしれない。司法書士に限らず、人と関わる仕事をしていても、話すことが得意とは限らない。むしろ、真面目な人ほど「うまく話さなきゃ」と思い込んで、自分にプレッシャーをかけているのかもしれない。僕も長年そうだった。でも、少しずつでも、自分のスタイルを受け入れて、話すことに向き合えるようになれば、それでいい。完璧じゃなくていいんだ、と伝えたくて、今こうして文章を書いている。
下手な会話でも少しずつ前に進める
返事がうまくできない。話しかけられると焦ってしまう。そんな自分を嫌いになりそうな日もある。でも、それでも人と関わりながら、仕事を続けている自分を、少しは認めてやってもいいんじゃないかと思う。今日もまた、変な返しをしてしまった。でも、それでも何とかやっている。そういう日々の積み重ねが、少しずつでも自分を成長させてくれている気がする。誰かに話しかけられたとき、前よりもほんの少しだけ落ち着いて返せたら、それはもう立派な進歩だと思う。