恋は譲渡できません
朝一番の依頼人はどこか影のある女性だった
蝉の声がまだ耳に残る九月の朝、うちの事務所のドアが軋む音とともに開いた。入ってきたのは、黒いワンピースに身を包んだ女性。口元にうっすらと笑みを浮かべていたが、その目にはどこか遠くを見つめるような影があった。依頼内容は、「債権譲渡登記の手続き」だと言う。
債権譲渡登記の謎に包まれたラブレター
彼女が差し出した資料の中に、なぜか封筒に入った手紙が一通紛れていた。登記の添付書類に紛れて、走り書きされた恋文のような内容。だがそれは、ある種の脅迫とも受け取れる文面だった。宛名はなく、ただ「返して」とだけ書かれていた。
サトウさんの冷静な視線と冷たい紅茶
「これ、添付書類じゃないですよね」とサトウさんは、紅茶を片手に眉一つ動かさずに言った。紅茶は、冷めていた。彼女は何かを察したようだったが、それ以上は言わない。冷静な視線は書類を一瞥し、僕の無駄な妄想に釘を刺すかのようだった。
所有権よりも難しい感情の扱い
恋愛感情なんてものは、法定通貨じゃない。評価もできなければ、登記簿にも記載できない。けれど、その感情が登記の背景にあるとしたら話は別だ。なにか見えない取引が、この登記の背後で行われている気がしてならなかった。
登記簿に書かれた違和感のある日付
登記済証を確認したとき、僕の中で何かが引っかかった。譲渡日が、登記申請日よりも半年も前になっている。通常の債権譲渡ならば、そんなタイムラグは発生しないはずだ。まるで、過去を捏造しているような感覚。記憶のトリックアートだ。
消された債務者と残された想い
さらに調べていくと、元の債務者の所在が不明であることがわかった。登記上は問題ないが、現実には存在が霧のように消えている。彼が消したのは債務か、それとも記憶か。残された手紙の文面が、妙に生々しい感情を残していた。
やれやれ、、、また面倒な話が舞い込んできた
昼過ぎ、ようやく全体像が見えかけた頃に、僕はぼそりと呟いた。「やれやれ、、、」。またしても恋愛絡みの案件に引きずり込まれるなんて、まるで恋愛マンガのモブキャラみたいだ。できれば、僕の日常はもう少し平穏であってほしい。
手書きの契約書に潜むもう一つの取引
彼女が持ってきたもう一つの書類、手書きの契約書には微妙な改ざんの痕跡があった。インクの濃淡、筆圧、そして契印の位置。誰かが後から文面をいじっている。サトウさんは「これ、第三者に見せることを前提にしてますね」と指摘した。
野球部時代の仲間が見せた予想外の表情
なぜか懐かしい名前が出てきた。債務者として登録されていたのは、僕の高校時代の野球部のキャッチャー、タカハシだった。彼はバッターボックスでは無敵だったが、恋愛にはとことん不器用だった。数年ぶりに会った彼は、まるで借り物のスーツを着た囚人のようだった。
恋文か脅迫か判別不能な付言事項
その後の調査で見つけた追加資料には「過去の約束は、未来の証明となる」と書かれていた。まるで暗号のような一文。法的には無意味な言葉も、当人たちには絶対の証拠だったのかもしれない。恋と債権、その境界は曖昧で不確かだった。
サトウさんの一言がすべてをひっくり返す
「これ、債権譲渡じゃなくて、恋愛の清算ですね」とサトウさんはきっぱり言った。その瞬間、霧が晴れた気がした。登記を利用して彼女は彼にメッセージを送り、過去を封印しようとしていたのだ。僕が気づくより先に、彼女はすべて終わらせていた。
謄本が語る真実と黙っていた嘘
謄本を眺めながら、僕はふと思った。嘘をつくのは言葉だけじゃない。沈黙もまた立派な嘘だ。真実は登記簿の中にあったが、そこには愛情という名の行が存在していなかった。誰もが見落とすその空白が、最も雄弁に語っていた。
債権譲渡の陰で交わされた真実の想い
最後に彼女が残していった一枚のメモには「忘れるのが一番の譲渡です」とあった。愛することも、憎むことも、結局は記憶に縛られるもの。誰かに譲り渡すことで、ようやく自由になる。彼女の選んだ登記方法は、彼女なりのけじめだった。
登録免許税の支払いを巡る小さな攻防
「で、登録免許税どうしましょうか」と僕が聞くと、サトウさんはため息をついた。「本当に恋って、金がかかるんですね」。僕たちは久々に笑った。税額は決して高くなかったが、そこに込められた代償は、あまりにも大きかった。
恋と登記のどちらも譲渡は簡単じゃない
登記は終わった。だが彼女の背中は、どこか晴れやかだった。譲渡されたのは債権だけ。恋心は譲れなかったのだろう。僕は書類を丁寧に綴じながら、ふとサザエさんのオープニングを思い出した。「どこから来たのかおくさんよ〜♪」──あの歌のように、恋もまた、いつか海の彼方へ流れていく。
最後に残ったのは、心の中の抹消登記だった
一件落着とは言えない。でも、彼女の心にはひとつの登記が完了したのだろう。記憶の中の恋、その登記の抹消が静かに行われた。司法書士としては何もできなかったかもしれないが、人として、少しだけ関われた気がした。