不在者の遺産分割協議書
その朝、机の上には見覚えのない角形封筒が一つ。宛名は達筆だが、差出人は記されていない。 中から出てきたのは、遺産分割協議書と呼ばれる代物だった。しかも、全員の実印と印鑑証明書が添付されている。
「こんなもん、普通なら喜んで登記しちまうけどな……」 俺は眉間にシワを寄せながら書類を手に取った。形式上は完璧。だが、その「完璧さ」が逆に鼻についた。
朝イチで舞い込んだ封筒
差出人の住所は消印から察するに東京。だが依頼者情報には、地元の名士である谷川家の長男・仁志の名があった。 問題はその仁志が、昨年から行方不明になっているという点だ。 「死人に印鑑は押せない、ってね」俺は独り言のように呟いた。
押印だけされた謎の書類
どうにも気に食わないのは、押された印影が妙に機械的だったことだ。 人が手で押したというより、どこかテンプレート的な臭いがする。 サトウさんなら見抜けるかと思い、横目で彼女を見たが、既に書類を手にしていた。
依頼人はどこへ消えたのか
「この人、まだ住民票はそのままですけど、公共料金止まってますね」 サトウさんが言いながらスマホで役所のデータベースを確認していた。彼女のこの冷静さには毎度舌を巻く。
「失踪宣告でもされたんですか?」 俺は椅子をギィと鳴らしながら立ち上がる。司法書士の仕事ってやつは、時々“探偵業”と紙一重だ。
本人確認が取れない
身分証も連絡先も無し。仮に書類が真正だとしても、依頼人不明では動きようがない。 それに——これは野球のスコアブックでいう“エラー”みたいなもので、細かい違和感が溜まっていく。
サトウさんの冷たい指摘
「この印鑑、既に亡くなった谷川家の父親と同じデザインですね」 彼女は俺の手元を指差すと、クールに言い放った。 「つまりこれ、誰かが意図的に作った“亡霊の意思”です」
亡き兄の筆跡と違う違和感
協議書に記載された「仁志」の署名は、俺の記憶にあるそれと違っていた。 几帳面だった兄の字ではなく、妙に角ばった不自然な字。まるで模写したかのようなぎこちなさだった。
「筆跡鑑定ってできましたっけ」 俺が言うと、サトウさんは即答した。「予算があれば、です」 やれやれ、、、司法書士にそんな探偵まがいな予算は無いのだ。
朱肉のにおいと気まずい沈黙
妙に新しい朱肉のにおいが残る書類は、まるで最近になって作られたと主張しているかのようだった。 不自然な新しさに、俺は手を止めた。「古いハンコを引っ張り出して押した」そんな雑な犯罪の香りがした。
実印の影が語るもの
俺は過去の登記簿を遡り、同じ印影を探し続けた。そしてついに一つ、15年前の土地の売買契約書に、全く同じズレとカスレを持つ印を見つけた。 「コピーだ」俺はつぶやいた。「この印影、15年前の書類から複製されたもんだ」
遺産を巡るもうひとつの意思
そしてようやく、事情を知る第三者が現れた。谷川家の末弟・翔がひどく青ざめた顔で事務所を訪ねてきた。 「兄さん、去年の春に……実は事故で……」 口ごもる彼の様子に、俺の胸の中で何かが確信に変わった。
母親の一言に隠された真相
「この印はね、仁志の“最後の気持ち”なんです」 電話口で話した谷川家の母のその一言が、事件の根っこを物語っていた。 彼女は“家族で争ってほしくない”という仁志の遺志を形にするため、過去の印影を使い、偽りの和解を演出したのだった。
やれやれ、、、また家庭の泥仕合か
事情が複雑になればなるほど、法律が追いつかなくなるのが現実だ。 誰も悪人じゃない、でも誰も正しくもない。 俺は椅子に背をあずけて深く息を吐いた。
ハンコが代弁しきれないもの
「形式的には無効ですね、でも……」 サトウさんが珍しく言葉を濁す。その表情は少しだけ柔らかかった。 俺はうなずくしかなかった。「それでも、誰かが伝えようとしたんだな」
形式では測れない家族の距離
判を押すことと、心を許すことは違う。 書面と気持ちは、似て非なるものなのだ。 そういうことを司法書士の仕事は時に教えてくれる。
最後に残されたメモの意味
協議書の封筒の底に、小さな付箋が挟まっていた。 「ごめんな。遅くなったけど、みんな仲良くしてくれ」 仁志の筆跡だった。それだけが、本物だった。
真相と和解の境界線
結局、再度協議をやり直し、遺産は円満に分割されることになった。 俺の出番はそれほどなかったけれど、これでいい。正義と手続きのバランスは、いつもどこかで綱渡りだ。
サトウさんの鋭い一言
「シンドウさん、たまには役に立ちましたね」 皮肉とも感謝とも取れる彼女の台詞に、俺は苦笑いしかできなかった。 「また俺の出番か、、、やれやれ」
印影が照らす家族のかたち
朱肉の跡がすべてを語るわけじゃない。 でも、そこに込められた“想い”をくみ取るのが俺たちの仕事だ。 今日もまた、机の上には新しい依頼書が一枚置かれている。