朝の書類とコーヒーと
朝の事務所には、インスタントコーヒーの香りと、昨日の疲れがまだ残っていた。僕は書類の山にうんざりしながら、いつものようにサトウさんの気配を待っていた。
ドアが開く音。彼女は無言でデスクに座り、僕の手元をちらりと見る。「それ、間違ってますよ」開口一番のその一言に、僕はもう何も反論できなかった。
やれやれ、、、今日もまた始まったか。そんな気持ちで、シャチハタを探す指先に少しだけ力が入った。
サトウさんの鋭い指摘
「この通行地役の契約、隣地使用者が変わってますね。登記が更新されてないままです」
彼女はタブレットをひょいと持ち上げ、電子地図と登記簿を並べてみせた。いつの間にそんな資料を整えていたのか、僕には想像もつかない。
「どうせ、また何か揉めてるんでしょう?」その予言は、数時間後、まさに現実となる。
裏道に立つ家の女
相談にやって来たのは、年の頃なら僕より少し若いくらいの女性だった。口数は少なく、手には古びた封筒を持っていた。
「この裏道、私のものじゃないんです。でもずっと通ってきた道なんです」彼女の声にはどこか、懐かしさと哀しさが入り混じっていた。
表情を読めば、何かを隠している。それは恋なのか、罪なのか、それとも、、、。
通行権トラブルの裏に
地役権とは、他人の土地を通行や排水のために使う権利。だがそれは、あくまで「契約」で成り立つ法律の話だ。
彼女が通ってきた裏道は、もはや登記されていない。地役権は過去のまま、今の土地所有者には何の通知もなされていなかった。
つまり、現在の使用は違法、、、かもしれない。いや、故意の見逃しかもしれない。
やれやれの調査開始
僕は古い登記簿と公図を引っ張り出して、机の上に広げた。慣れ親しんだ地元の地図だが、目を凝らすと違和感があった。
「この土地、もともと彼女の親族のものだったみたいですね」サトウさんの指摘に僕も頷いた。
地役権が設定されたのは、20年前。だが数年前に所有者が変わり、そのときに更新されていない。何かがおかしい。
カギを握る赤い実印
封筒の中には、古い契約書のコピーと、赤い実印が押された同意書が入っていた。そこには、当時の地権者と、彼女の父の名が並んでいた。
「この同意書、法的には有効だけど、、、でも変ですよね」サトウさんが眉をひそめる。
「これ、誰かの筆跡に似てません?」彼女が差し出したメモには、昨日送られてきた登記識別情報通知書の筆跡が写されていた。
夜の路地裏のひそひそ話
地元の不動産屋を回って聞き込みをする中、僕は元野球部の脚力を生かして、細い路地を何度も行き来した。
夜になり、彼女の話を聞いたという近所のおばあさんが、ぽつりと漏らした。
「あの子、昔あの男の子と一緒に裏道を通ってたねえ。まるでサザエさんの波平とフネみたいに、古風で真面目だったわ」
地役権の目的外使用
さらに調査を進めると、その裏道は一部、彼女が勝手に補修していたことがわかった。通行権のはずが、私道のように扱われていた。
本来の目的を逸脱している可能性がある。だがそれは、純粋な恋心が成せる行動だったのかもしれない。
やれやれ、、、法と情は、どうしてこうも噛み合わない。
疑念と恋心の交差点
真実が見え始めたとき、彼女が再び事務所に現れた。目元にうっすらと涙を浮かべ、言った。
「あの道には、約束があったんです。結婚したら、あの裏口から入ってきてって、昔、、、」
僕は無言でうなずき、傍らのサトウさんは小さく咳払いした。
サトウさんの冷静な推理
「恋人の父親が元の土地所有者。そして新しい所有者は、その恋人本人。地役権が更新されなかったのは、更新する理由がなかったから」
そう、彼は彼女のために道を開けていた。法ではなく、心で。
だけど、その想いが届かないとわかったとき、彼は道を閉ざした。
浮かび上がる黒い登記の影
すべてが判明した。地役権の抹消登記は、彼女が別の男と結婚するという噂を聞いた直後に申請されていた。
法の上では正当。だが動機は、恋の終わりだった。
まるで探偵漫画の一幕のように、切なく、滑稽で、、、美しかった。
元恋人の署名の秘密
筆跡は一致した。すべてが、彼女を守るためだったのか、忘れるためだったのか。
真実を明かすことで、彼女の心がどう動くか、それは僕にはわからない。
でも少なくとも、彼の道は閉じられた。永遠に。
依頼人の静かな微笑
「ありがとうございました。これで、踏ん切りがつきました」彼女は静かに笑った。
笑顔というより、別れの表情だった。何かを置いていく覚悟を決めた顔。
サトウさんは少しだけ優しく言った。「次の道は、前にしかないですよ」
サトウさんの小さなため息
「司法書士って、損な役回りですね」彼女の言葉に、僕は首をすくめた。
「まあね。でも、ちょっとくらいは誰かの役に立ってるかも」
書類を閉じながら、僕は次の依頼人の名前を確認した。
やれやれ今日もまた
登記の報酬は雀の涙。でも人の人生を少しでも前に進められたなら、それで十分かもしれない。
「お昼どうします?」サトウさんが無表情で聞いてくる。
やれやれ、、、たまには僕にも優しい選択肢をくれてもいいのに。
でも悪くない日だった
窓の外には、秋の風が吹いていた。遠くに見える道には、もう彼女の姿はなかった。
でもきっと、あの裏道の先には、新しい地役権ではなく、新しい物語が始まっているのだろう。
そして、僕はまた書類と格闘する日々に戻るのだった。