不自然な遺言状
午後一番にやってきた依頼人は、古びた朱の封筒を机の上にそっと置いた。中には手書きの遺言状。筆跡は乱れており、日付は死亡の三日前。妙に整った文面が逆に違和感を呼んだ。
「これを公正証書にしてほしいんです」と彼女は言った。顔を伏せたまま、涙の跡だけが残っていた。
依頼人の涙と朱の封筒
その封筒には、古びた赤インクの滲みがあった。雨に濡れた形跡もないのに、どうしてだろうと気になった。遺言状の最後には「愛する君へ」とだけ書かれていた。
「こんなもの、認められるのか?」と俺は内心思った。やれやれ、、、また厄介な案件かと頭を抱えた。
書かれた日付の違和感
日付の筆跡だけ、なぜか明らかに違っていた。他の文面よりもインクが濃く、筆圧が強い。それはまるで「後から書き加えた」と訴えているようだった。
「これ、死んだ人が書いたんじゃないかもしれませんね」と後ろからサトウさんがぽつり。俺は思わずペンを落としそうになった。
サトウさんの鋭い視線
彼女の視線は遺言状ではなく、依頼人の持っていたバッグに向いていた。そこには、使用済みのインクペンが無造作に突っ込まれていたのだ。
「あれ、うちで使ってるのと同じインクじゃ?」とサトウさん。俺は慌てて、何もなかったようにコーヒーを啜った。
「この人、本当に書いたんですか?」
「旦那さんが書いたとおっしゃいましたが……筆跡がちょっと違うような」とサトウさんは続ける。依頼人の表情がぴくりと動いた。
「ええ、病床で……苦しそうに。でも確かに書いたんです」と言ったが、その口調はどこか芝居がかっていた。
戸籍謄本の文字が語る過去
調査を進めると、彼女は数年前に前夫との婚姻を解消していたことが分かった。だが、死亡した男性と籍を戻した記録がなかった。
つまり、法的にはただの元配偶者。遺言による受け取りには、厳格な形式が求められる。
亡き夫のもうひとつの顔
彼はかつて文筆業をしていた。だが、晩年はほとんど何も書いていなかった。知人の証言によれば、「ペンを握るのもしんどい」とこぼしていたらしい。
なのに、あのしっかりした筆跡? 何かがおかしい。どこかに、書斎でもあるのか。
婚姻関係終了届と秘密の書斎
かつて暮らしていた旧宅の奥には、鍵のかかった小部屋があった。中には使用されていない万年筆と、未使用の便箋が整然と並んでいた。
まるで、「ここでは何も書かれていない」と主張しているようだった。
キャッツアイ方式の金庫の中
その部屋の床下に、数字の書かれた古い金庫があった。開けてみると、そこには別の遺言状が保管されていた。封はされておらず、日付は一ヶ月前。
そこには、「全財産を弟に譲る」と書かれていた。愛ではなく、血が選ばれたのだ。
やれやれ、、、またかという気持ち
俺は深くため息をついた。司法書士というのは、法の上で人の感情と折り合いをつける商売だ。だが、感情ばかりが勝ってしまう案件が一番しんどい。
「ねえ、これ……提出するの?」とサトウさんが言う。俺は書類を閉じながら、「まあ、検認してもらうのは自由だからな」と答えた。
旧姓の署名とその意味
後で確認したところ、依頼人の持参した遺言状には、新しい姓が書かれていた。彼女は、再婚していたのだ。
つまり、名前を書いたのは彼女自身だったのかもしれない。証明はできないが、辻褄はすべて合ってしまった。
手数料より高い真実の重み
結局、依頼人は何も言わずに帰っていった。俺たちは報酬を受け取ったが、後味はどこかぬぐえなかった。
法の上では処理できても、感情は処理できない。それがこの仕事の厄介なところだ。
遺言とともに消えた愛
封筒に書かれていた「愛する君へ」という言葉。その筆跡だけは、本物だったのかもしれないと、ふと思った。
でも、それは誰に向けられたものだったのか。今となっては、もう確かめようがない。
偽造された優しさ
本当は彼女も、愛されていたのかもしれない。けれど、その思いを「遺産」で形にしようとした時点で、どこかが歪んだ。
そしてそれが、「偽造」という形で表に出たのだとしたら、あまりにも悲しい。
一行の削除が招いた地獄
「全財産を弟に譲る」の一文。その下に、誰かが消した跡があった。おそらく、「ただし家だけは彼女に」のような一文だったのだろう。
だがその一行がなかったことで、彼女はすべてを失い、嘘を選んだのかもしれない。
法の外にある情と冷たさ
俺たち司法書士は、証明できることだけを扱う。情や過去の思い出は、記録できない。だが、そこにこそ人間の本質が眠っている。
「正しさ」ではなく、「惜しさ」が最後に残った事件だった。
「裁判じゃなく、心で決めたい」
遺言状は提出されたが、裁判には至らなかった。彼女は結局、何も受け取らなかったという。
きっと彼女の中では、すでに結論が出ていたのだろう。
そして、彼女は封を開けなかった
後日、封を開けていない朱の封筒がうちに届いた。中には、便箋が一枚だけ。何も書かれていなかった。
だが、その空白こそが、彼女なりの「愛の証明」だったのかもしれない。