あの日届いた一通の電話がすべての始まりだった
地方の司法書士として日々の業務に追われていたある日、一本の電話が鳴った。特に変わった内容ではなかった——相続登記の相談。ただ、名前を聞いた瞬間、時が止まったように感じた。彼女の名前だった。10年以上前に別れた元カノ。仕事に集中するあまり、恋愛もうまくいかず、最後にこじれて終わったあの関係。忘れたつもりだったけれど、声に出されたその名前で、心の奥底に沈めた記憶が一気に浮かび上がってきた。
元カノの名前が戸籍に出てきたときの違和感
最初はただの偶然かと思った。でも、戸籍を確認していくうちに、彼女の旧姓、住所、年齢…間違いない。書類の中で再会するとは思ってもみなかった。自分でも気づかないうちに、書類に手を添える指先が震えていた。冷静を装っても、内心は動揺していた。
依頼者も驚いた旧姓の記載
依頼人は、彼女の再婚相手の親族だった。旧姓の記載を見て、「これ、昔の名字ですよね?」と何気なく言った一言に、自分の動揺をさらにかき立てられた。戸籍というのは残酷だ。過去をきちんと記録しているから、もう会うこともないと思っていた相手と、不意にこうして対面する。
「まさかあの人?」と胸をよぎる記憶
「あの人は、今どうしているのか」「幸せなのか」。そんなことを考える自分がいて情けなかった。仕事中なのに。いや、だからこそ感情を抑えるのがしんどい。結局、昔の思い出って、綺麗に忘れ去ることなんてできないのかもしれない。
冷静を装うも心はざわつく
作業は滞りなく進めなければならない。それがプロというものだ。けれども、書類の一枚一枚に、昔の彼女の面影がちらつく。こんなこと、普通は他の同業者に話せない。みんな「感情を切り離して仕事しろよ」と言うだろう。でも、人間だもの、そんな簡単にできない。
事務員に気づかれないように対応する難しさ
事務所にいる唯一の事務員さんは、真面目で気が利く女性だ。「先生、顔赤いですよ?」なんて、余計なことに気づかれてはいけない。わざとらしく咳払いをしたり、水を飲んでごまかしたり。普段なら何でもない手続きが、今日はえらく疲れる。
過去の恋愛と現在の仕事が交差する瞬間
この仕事は、感情を挟んではいけないものだ。そう思ってこれまでやってきたし、それが正しいとも思う。だけど、今回だけは例外だった。過去の恋愛と現在の業務が、紙一重のところで交差する——そんなこともあるのが司法書士の仕事の現実だ。
感情と専門職のバランスの取り方
「個人としての自分」と「司法書士としての自分」をどう切り分けるか。これはこの職を続けている以上、永遠の課題なのかもしれない。冷静さを保ちながらも、心が折れそうになるときはある。でも、それでも前に進まなきゃいけない。書類は待ってくれない。
相続書類一つで振り回される気持ち
「書類はただの紙」と割り切れればいい。でも、その紙には誰かの人生が詰まっている。今回のように、自分の人生にも触れてくることがある。まさか、元カノに向けた書類を自分の手で作る日が来るとは。プロ意識と感情の狭間で、ただただため息が出る。
プロとして割り切れるか、それが試される
結局のところ、どんなに感情が揺れようと、業務は進めなければならない。相続登記も、提出期限もある。自分に課された仕事を、感情を抑えて終わらせる。それができるかどうかで、司法書士としての器が問われている気がした。
過去を知らないふりで進める日常業務
元カノの名前が何度も書類に現れても、いちいち反応していられない。依頼人には関係ないことだし、こちらが動揺しては失礼にあたる。だからこそ、「知らないふり」というスキルが、この仕事では必要になるのかもしれない。
事務的な書類でも心がザワつく
住所変更届、戸籍附票、印鑑証明——どれもただの手続き書類。でも、名前を見るたびに昔のことを思い出す。今どこで、どんな暮らしをしているのか。知りたいような、知りたくないような。そんな気持ちを抱えたまま、今日もペンを走らせる。
それでも手を止めない自分への励まし方
「誰のためにやっているんだ?」と自分に問いかける。依頼者のため、職責のため、自分の信念のため。その答えを見失わないようにして、書類を丁寧に仕上げる。プロであることは、そういう自分の気持ちに打ち勝つことなのだ。
冷静に進めるためのルール作り
感情に左右されないためには、日々の業務を一定の型にしておくことが有効だ。マニュアル、チェックリスト、テンプレート。形式化することで、気持ちが乱れても最低限の仕事ができるようになる。自分の心を守るための仕組みでもある。
テンプレート化された手続きに救われる
文面も進行も、ほとんどがルーチン化されている。それが救いだった。感情が揺れる場面でも、決められた流れをなぞっていけば何とかなる。「機械的だ」と言われようと、こういう日があるからこそ、テンプレートの力は侮れない。
小さな町で働く司法書士の孤独
都会なら顔を合わせずに済む人間関係も、この町ではそうはいかない。元カノも、依頼人も、どこかでつながっている。誰かの人生の節目に立ち会うこの仕事だからこそ、時には自分自身の節目にも直面させられる。
偶然なのか運命なのか
この仕事をしていなければ、彼女の名前を見ることもなかっただろう。でも、それでも自分はこの道を選んだ。そして、巡り巡って彼女に書類を届ける立場になった。偶然だと片付けるには、何か引っかかる。運命って、こういうものなのかもしれない。
人間関係の濃さが生む再会
小さな町は、人間関係が濃い。そのぶん、距離が近くて、こうして思いがけない再会も起こる。良くも悪くも、逃げ場がない。でもだからこそ、誠実に、丁寧に生きるしかないと、改めて思い知らされる。
心の中に押し込めた感情の整理
書類を提出し終えたあと、静かな達成感と、言いようのない虚無感が押し寄せた。感情を押し込めて、何事もなかったかのように過ごした一週間。その反動が、どっと疲れとなって身体にのしかかった。
仕事を終えてから湧き上がる後悔と安堵
「あのとき、もっとうまくやれていたら」そんな後悔と、「やっと終わった」という安堵感。矛盾する二つの感情が入り混じる。でも、今日も明日もまた別の案件が待っている。だから、深呼吸をして、椅子に座り直す。司法書士として、生きていくしかない。