鏡の中の自分に違和感を覚える朝
毎朝、洗面台の前でネクタイを締めながら鏡を見ます。以前は「今日もがんばろう」と思えたはずのその時間が、ここ最近は憂うつで仕方ない。スーツ姿の自分に、どこか「借り物感」を覚えてしまうのです。肩の位置がずれて見える、シャツの襟が浮いている気がする。何より、表情と服装が合っていない。そんな違和感を抱いたまま、今日も出勤します。
ネクタイを締める手が止まった瞬間
ある朝、不意に手が止まりました。いつも通りにネクタイを巻こうとした瞬間、ふと「これ、本当に必要か?」と思ったのです。無意識に繰り返してきたルーティンに疑問を感じたのは、たぶん初めてでした。ネクタイというのは、相手に礼を尽くすための装い。だけど、そこに自分自身が映っていないような気がしてしまったのです。
「これ、誰だ?」と思った自分
鏡に映るのは、髪の量が少し減って、顔も少し疲れた中年男性。その姿が、かつて「ビシッと決めてた」頃の自分とはまるで別人に見えました。20代の頃は、自分のスーツ姿をどこか誇らしく感じていたのに、今は「こんなはずじゃなかった」と感じるばかり。思わず、「これ、誰だよ」と小さくつぶやいてしまったこともありました。
肩のラインがずれて見えるワケ
スーツは本来、体に合わせて仕立てるもの。けれど忙しさにかまけて、もう何年も同じスーツを着続けている自分。運動不足で少しずつ変わってきた体型には、もう合っていないのです。フィットしないスーツは、見た目にも違和感を生み、姿勢まで悪く見える。それがまた、気持ちを沈ませる原因になっているのだと思います。
買い替えても解決しない感覚
思い切ってスーツを新調してみたこともありました。サイズはぴったり。素材も上等。でもやっぱり、鏡を見たときに心が晴れることはありませんでした。新しいスーツが悪いのではなく、自分自身の気持ちが「もうスーツに自分を重ねられない」状態になっていることに気づいたのです。これは、単なる加齢や体型の問題じゃない。
身体の変化か、心の変化か
たしかに、年齢を重ねることで体つきも変わってきました。でも一番大きいのは、スーツを「戦闘服」として着ていた頃の気持ちが薄れてきたこと。若い頃のように、「見た目で勝負」する必要性を感じなくなった今、心の中にある「自分らしさ」とスーツが一致しなくなっている。そういう変化に、ようやく向き合う時期が来たのだと思います。
司法書士という職業とスーツの関係
司法書士は「信頼される職業」。だからこそ、身だしなみにも気を使わねばならないという思い込みがありました。清潔感、きちんと感、そうした「ちゃんとして見える」服装が、信用を築く一歩だと信じていました。でも、本当にそれだけで信頼されるのだろうか? 最近、その考えに揺らぎを感じています。
なぜスーツを着るのか、という問い
そもそも、なぜ自分は毎日スーツを着ているのか。その問いに答えようとすると、「なんとなくそうしてきたから」としか言えない自分に気づきます。依頼者の安心感、社会的なイメージ、職業人としての自覚──すべては理解できますが、それは「自分が着たいから」ではないんですよね。義務感だけが残ってしまっているようです。
信頼感か、それとも単なる慣習か
スーツを着ていると、「しっかりしてそう」と見られることがあります。確かにその通り。でもその印象は、裏を返せば「服でごまかしてる」だけとも言えるかもしれません。もしもカジュアルな服装でも誠実に業務をこなしていたら、同じように信頼されるのではないか? 慣習を守ることだけが正解ではないのかもしれません。
「ちゃんとして見える」ことの呪縛
「ちゃんとして見える」ことが、いつの間にか「ちゃんとしなければならない」に変わっていた。その呪縛が、自分の中で息苦しさになっていたのです。見た目で安心させることはもちろん大事。でも、自分の心がしんどいなら、それは本末転倒です。自分らしさと、相手への敬意。そのバランスを見つめ直す時期が来ている気がします。
年齢とともにズレていく「似合う感覚」
昔は「スーツが似合うね」と褒められることが嬉しかった。今は、言われても素直に受け取れない。スーツが変わったのではなく、自分の内側が変わったんです。似合う似合わないではなく、「似合うように感じられなくなった」。それは、年齢とともに積み重ねてきた経験と、心の変化の表れなのだと思います。
若い頃のスーツ姿との比較
20代の頃、証明写真を撮るたびにスーツ姿が決まってるなと自画自賛していました。親にも「立派に見える」と言われて少し誇らしく感じていたあの頃。今その写真を見返すと、スーツに負けてない表情がそこにあります。でも今は、自信のない顔をスーツがさらに浮き彫りにしている気がして、逆に見ていてつらくなることもあるのです。
似合っていた頃の写真を見てしまった日
たまたま古い免許証の更新ハガキの写真を見て、「ああ、この頃はまだスーツが似合ってたな…」とため息をついた日がありました。自分ではそんなに変わったつもりはなかったけれど、写真は正直でした。時間は確実に流れていて、体も、顔も、雰囲気も、年齢相応に変化している。それを認めるのに、少し時間がかかりました。
自分らしさとは何かを考え直す
結局のところ、「スーツが似合わなくなった」と感じるのは、単に服の話ではなく、自分の変化に気づいてしまったということ。今まで積み上げてきたキャリア、価値観、人との関わり。そのすべてが、昔の自分とは違う形になっているのです。だからこそ、「どう見せたいか」より「どう在りたいか」を大切にしたいと思うようになりました。
装いで武装する必要がある仕事か
司法書士という仕事は、ときに「頼られることが正義」になります。だからこそ、「頼られる見た目」に自分を当てはめようとしてきた。でも今は、見た目ではなく、実績や対応力、人柄の積み重ねで信頼を築くほうが自然じゃないかと思い始めています。装いを武装にする必要は、もしかしたらもうないのかもしれません。
見た目の印象と中身のギャップ
スーツを着ていると「堅そう」「真面目そう」と思われます。でも実際は、日々愚痴をこぼしながら仕事を回している普通のおじさん。そういうギャップに、自分でも笑えてきます。だったら無理に「真面目そうな外見」を演じなくてもいいんじゃないか。そう思えるようになってから、少しだけ気が楽になりました。
もう「似合う」ことを目指さなくてもいいのかもしれない
スーツが似合わなくなった。それは寂しさでもあり、ある種の解放でもあります。見た目の「似合う」にしがみつかなくても、自分には他に誇れることがある。そんな風に考えられるようになったことで、少しだけ前向きになれた気がします。
無理にスーツに自分を合わせないという選択肢
最近は少しカジュアルなジャケットで仕事に出ることもあります。最初は不安でしたが、依頼者の反応は変わりませんでした。むしろ「話しやすい」と言われたことも。無理してスーツに自分を合わせなくても、自分に合ったスタイルで信頼を築いていけばいい。そう思えるようになったのは、小さな成長かもしれません。
クライアントに誠実でいることの方が大事
見た目の整え方よりも、対応の丁寧さ、説明のわかりやすさ、そして何より「誠実さ」が相手には伝わるんだと思います。スーツが似合わなくなったからといって、自分の価値が下がるわけじゃない。今後は「自分らしさ」を大事にしながら、司法書士として信頼を積み重ねていけたらいいな、と思っています。