はじまりは定型処理のはずだった
いつものように、朝の書類の山と格闘していた。判子を押すだけの、いわば「流れ作業」。電子押印システムが導入されてからは、紙に朱肉を付ける機会も減った。ボタンひとつで、あとは承認完了の印影が自動で生成される。ただそれだけのはずだった。
だが、その日は違った。顧客から届いた一本の電話が、いつもの「簡単な処理」にヒビを入れた。「押印が勝手にされていた」と。
「勝手に押されるなんてあり得ないんですがね……」そう言いながらも、私は少しだけ胸騒ぎを覚えていた。
一通の依頼と無機質な押印
問題の書類は、役員変更登記に関するもので、内容は定型的。顧客の指示通りに処理し、私のシステムからは自動押印がされた記録が残っている。それでも、依頼人は「まだ承認していない」と言い張った。
サトウさんが静かに端末を叩きながら言った。「このシステム、ログは取ってるけど、実際に誰が押したかまでは記録されないんですね」。まるで、サザエさんが「また波平さんのハンコだったの?」とでも言い出しそうな展開だった。
押された印影には、私の名前がしっかりと記されていた。だが、私にはその操作をした記憶がない。
その押印は正しかったか
ログを精査してみると、確かにその時間、押印操作がなされていた。しかしそれは、私が電話で別件の相談を受けていた最中の時刻だった。
つまり、私の意識とは別の場所で、承認が実行されたことになる。システム的には問題なし。だが、人間的には大ありだ。
やれやれ、、、また妙な案件に巻き込まれたようだ。
システムからのログ出力
ログファイルを引っ張り出すと、そこにはアクセス権限「代表司法書士」による一連の押印処理が記録されていた。システム自体に異常はなかった。では誰が、なぜ、どの端末で操作したのか。
ここで浮かび上がったのが、「予約印影機能」の存在だった。処理前にあらかじめ印影を作っておく仕組み。それがトリガーされていた可能性が出てきた。
だとすれば、問題は押印ではなく、印影の“トリガー”だったのかもしれない。
見落とされた押印時間
押印がなされたのは午後2時12分。私はその時間、別の案件の相談者とZoomで話していた。証人として、サトウさんも同席していた。
つまり、あの押印は、私ではない“誰か”によってなされたということになる。人ではない、システム的な“何か”によって。
そこから私は、あの日のタスクスケジューラの記録を辿り始めた。
タイムスタンプに潜む違和感
奇妙なことに、同じ分数に、もうひとつ別の処理も走っていた。前任者が組んだ自動印影マクロが、毎週月曜の14時に起動するよう設定されていたのだ。
しかもそのマクロは「予約印影があれば押印を実行」とだけ記述されていた。あとはエクセルでも動くような簡単なVBAコード。
このトラップ、まるでキャッツアイのように静かに忍び寄っていた。
サトウさんの冷静な一言
「つまり、放置されていた予約印影が、前任者の残したマクロで勝手に押されたってことですね」
サトウさんの指摘で、全ての点がつながった。私はかすかに笑ってしまった。犯人は人ではなかった。放置されたシステムの“ゴースト”だ。
「よかった、これで顧客に土下座せずに済む」と私はつぶやいた。
書類の裏にあったもう一つの手がかり
その後、顧客が持参した紙の控えの裏に、小さく「承認は来週以降に」と手書きのメモが発見された。それがこのトラブルの真実を裏付けた。
結果として、システムの押印は「フライング」だった。だが、それは設定されたマクロが原因。誰の責任か――それは微妙な問題だった。
サトウさんは静かにメモをスキャンして、証拠として保管していた。
封印された前任者の影
このマクロは、3年前に勤めていた補助者が組んだもので、本人はすでに別事務所へ移籍済み。残されたスクリプトは、誰にも気づかれず稼働し続けていた。
「これはデジタルの“遺言”だな」と私は苦笑した。
設定は簡単、解除は厄介。まさに“封印された機能”だった。
過去のデータベースが語り出す
その後、調査のため開いた古いデータベースのログにも、同じ時間に押印された記録がいくつか残っていた。だが、今までは誰もそれを問題にしなかった。
気づかなかっただけなのか、それとも“問題にならなかった”だけなのか――。いずれにせよ、真相はこうして明らかになった。
真犯人は人ではなく、システムの“惰性”だったのだ。
真犯人は事務所の外にいた
念のため、私は元補助者に電話をかけた。彼は「え、まだあのマクロ生きてたんですか」と驚いていた。「あれ、月曜に押すだけのやつでしょ」と。
まるで他人事のような言い方だったが、悪意はなかったのだろう。ただの効率化の一環だった。
とはいえ、あれで一歩間違えば賠償問題になっていたのだ。やれやれ、、、。
連携された別システムの罠
どうやら、そのマクロは旧式のタスクスケジューラと連動していて、新しい電子押印ソフトにも影響を及ぼしていた。私の知らぬところで、旧システムはまだ生きていたのだ。
まるで、名探偵コナンのように「真犯人はこの中にいる」と思わせておいて、実は“この外”にいたというオチだった。
ITと法務が交差するとき、必ず“落とし穴”がある。
やれやれ、、、またこれか
電子化で便利になるはずが、見えないリスクが増えている。誰かの“善意の置き土産”が、こうして事務所の平穏を揺るがすとは。
結局、私はシステムの完全洗浄とマクロの削除、そして顧客への丁寧な説明に丸一日を費やすことになった。
司法書士ってのは、地味なようでなかなかに探偵なのかもしれない。
地味だが堅実な司法書士の戦い
サトウさんが呟く。「派手さはないですけど、シンドウさんって案外タフですよね」。私は「どうせならルパン三世のように華麗に解決したいもんだ」と言ってみたが、彼女は鼻で笑った。
「無理です。あの人はモテるし」。ぐうの音も出なかった。
私は黙って、次の押印ボタンに指を伸ばした。
事件の落着とその後
後日、顧客から菓子折りが届いた。謝罪どころか「さすがです、安心しました」とまで言われた。いや、本当に危なかったのだが。
人は見えないものを過信しすぎる。便利さは、油断と紙一重。だからこそ、私たちのような“目利き”が必要なのだろう。
今日もまた、無数の電子印影が飛び交う中で、私は静かに目を光らせている。