相続登記に潜む影

相続登記に潜む影

登記簿と冷たい遺影

突然の来訪者

静かな午後、コーヒーの香りが事務所に漂っていたところに、重たい足音が響いた。入口に現れたのは、喪服姿の中年男性。手には分厚い封筒と遺影があった。まだ表情に涙の跡が残るその顔は、何かを訴えているようだった。

「亡くなった姉の相続登記をお願いしたいんですが…」そう切り出した彼の声は、どこか急いでいた。私は立ち上がり、彼を椅子に促しながら、事務員のサトウさんと目を合わせた。彼女の瞳にはすでに一抹の違和感が宿っていた。

五年前の離婚と消えた戸籍

提出された戸籍謄本を見て、私は眉をひそめた。依頼人の姉は、数年前に離婚していた形跡がある。しかし、除籍されたはずの旧姓が、なぜか相続人として記載されていたのだ。妙な話だ。戸籍というのは、時に真実と嘘の狭間に存在する。

サトウさんは無言でファイルを確認し、静かに「この記載、何か変ですね」と一言つぶやいた。その冷静な声が、私の胸のどこかをチクリと刺した。

不自然な法定相続分

遺言書の不在が意味するもの

相談人は遺言書は存在しないと言い切った。しかし提出された資料には、明らかに“分割協議書に従う”と書かれていた。つまり、法定相続ではなく合意分割を想定していた形だ。それならば、なぜこんなに急ぐのか。

私はふと、子どもの頃観たサザエさんのカツオが、小遣い欲しさに波平の印鑑を勝手に押した回を思い出した。まさかそんなことは…いや、登記の世界では、印鑑一つで命運が分かれる。

兄妹の証言が食い違う理由

別日に訪ねてきた妹の話では、姉には内縁関係の男性がいたという。その男が最近、急に家の権利を主張し出したとも聞いた。しかし登記簿には、その男の名前は一切出てこない。これは隠された相続関係の匂いがする。

「兄は何か隠しているかもしれません」と妹は言った。その目は真剣だったが、少しだけ怯えもあった。何がそこまで彼女を不安にさせているのだろうか。

旧姓で申請された登記

司法書士としての違和感

提出された登記申請書には、なぜか旧姓が使われていた。通常、登記は現行の氏名を使うのが原則だ。私はその点を指摘したが、相談人は「姉が旧姓に戻っていたから当然だ」と言う。しかし、それを証明する公的資料はどこにもない。

「やれやれ、、、面倒な案件だな」と思わず声に出た。すると、サトウさんが無言で一枚の紙を差し出した。そこには、最近更新された住民票の写しが添付されていた。そこに記載された名前は――現姓だった。

サトウさんの冷静な検証

「この登記申請書、文面が他の相続人と一致しすぎてます」とサトウさんは指摘した。見比べてみると、全員がまるでコピーしたような署名と押印をしている。特に妹の署名は、普段の筆跡とまったく違う。

私はため息をつきながら、筆跡鑑定の専門家の連絡先をスマホで探し始めた。司法書士は刑事じゃない。けれど、これはただの登記じゃ終わらない気がしていた。

登記識別情報のすり替え

提出された委任状の謎

依頼人から提出された委任状の日付が、死亡日の前日になっていた。これは合法的に見えて、極めて危ういラインだ。死亡の翌日に申請されていたことも、妙に準備が良すぎる。用意周到すぎると、それは逆に証拠になる。

しかも委任状の印影が、以前別件で見たものと酷似していた。私は過去のファイルを開き、同じ印鑑が使われていた事例を引っ張り出して確認した。そして、ある仮説が生まれた。

法務局の記録と一致しない筆跡

筆跡鑑定の結果が返ってきた。やはり、妹の署名は他人によるものだった。つまり、兄が何者かになりすまして委任状を作成した可能性が高い。これは完全に不法行為だ。

法務局の職員に確認したところ、提出された書類にも同様の疑いがあると回答された。私の背中に冷たいものが走った。司法書士という仕事の重さが、改めて肩にのしかかった。

隠された養子縁組

封印された戸籍の附票

さらに調査を進めると、驚くべき事実が出てきた。亡くなった姉には、生前に養子縁組した女性がいた。しかしその存在は、戸籍謄本の一部から意図的に除かれていた。戸籍の附票まで確認しなければ、この事実はわからなかった。

つまり、法定相続人は兄妹ではなく、その養子だった。兄が急いで登記を進めた理由が、ようやく腑に落ちた。すべての点と線が、一本の糸に繋がった瞬間だった。

財産を手にしたのは誰か

養子の女性に会ってみると、彼女は相続の件など何も知らされていなかった。彼女の存在を抹消するために、兄は戸籍を意図的に省略し、書類を偽造していたのだ。だが、登記簿に記された嘘はもう通らない。

私はすぐに全資料を法務局に報告し、同時に警察にも通知した。司法書士としてできる限りの責任を果たしたつもりだった。

最後のカギは地元の農協通帳

シンドウの地道な聞き込み

姉が最期に預けていた通帳が地元農協に残っていた。その入出金履歴から、兄が葬儀前に口座を解約していたことが判明した。相続前に財産を動かすのは、かなりグレーだ。私はそれも含めて報告書を作成した。

事務所に戻ると、サトウさんが淡々と「全部終わりましたね」と言った。私は背中を伸ばしながら、「やれやれ、、、また一つ妙な話が終わったか」と独り言のようにこぼした。

影を引く法定相続の裏側

司法書士としての矜持

司法書士とは、ただ登記をする人間ではない。真実に向き合い、人の縁を記録する者だ。今回のような事件があるたびに、その役割の重さを思い知る。そして、また静かに次の案件がやってくるのだ。

たとえ塩対応されても、サトウさんのような仲間がいればなんとかなる。私は一枚の報告書をファイルに綴じ、机にそっとコーヒーを置いた。午後の光が静かに差し込んでいた。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓