朝の登記相談と一本の電話
季節外れの雨が降る朝、濡れた傘を片手に男性が事務所に現れた。話によれば、十年前に亡くなった兄の名義のまま放置された土地の登記変更をしたいという。特に揉めてはいない、ただ義務としてやらなければと思って、と彼は言った。
その言葉の裏に、どこか拭えない迷いがあった。サトウさんは無言で資料を受け取り、僕に視線を送った。
名義変更をめぐる奇妙な依頼
依頼書類は一見問題なさそうだった。ただ、相続登記を今さら?という直感が引っかかった。すでに相続登記義務の期限は過ぎているはずだし、怠った理由も聞き出せなかった。なのに、急に「ちゃんとやりたくなった」だと?
事務所の電話が鳴った。受話器越しに「死んだはずの兄が生きているかもしれない」と、別の人物が囁いた。
兄と弟をつなぐ一枚の登記事項証明書
取得した登記事項証明書には、兄が昭和の終わりに買った土地の名義がしっかり残っていた。固定資産税は、どうやら弟がこっそり払っていたようだ。それなのに、相続登記を避けていたのはなぜなのか。
そこには、過去に交わされた“兄弟の約束”の痕跡があった。
過去の贈与と義務の忘却
弟は、口約束で兄から土地を譲り受けたという。だが、登記をしないまま年月が過ぎ、兄が亡くなったことになっていた。いや、正確には、亡くなった「ことにされていた」のだった。
登記簿と戸籍の記録が、完全に一致していなかったことにサトウさんが気づいた。
事務所に舞い込んだ匿名の封筒
その日の午後、封のされていない茶封筒がポストに投函されていた。中には昭和時代の白黒写真と、地番だけが記された手書きのメモがあった。写真に写っていたのは、依頼者の兄と思しき男性と、見知らぬ女性。
「こんなドラマ、サザエさんの波平もびっくりですね」と僕がつぶやくと、サトウさんは無言で書類を差し出してきた。
差出人不明の通知と土地の地番
記されていた地番は、依頼された土地とは隣接していた。そして、驚くことにそこは既に第三者名義になっていた。過去に何があったのか、その記録はどこにもない。まるで存在を消すように誰かが動いた跡だった。
まさか、まだ兄はどこかに生きていて、その登記を…?
サトウさんの冷静なツッコミ
「司法書士が感情に振り回されてどうするんですか」サトウさんはピシャリと言い放った。まあ、そう言われても、気になるものは気になる。仕方ないじゃないか。
「やれやれ、、、」と心の中でつぶやいて、僕は戸籍をもう一度見直した。
戸籍と登記簿の照合作業
奇妙な点があった。兄が死亡したとされる日付の戸籍には、正式な医師の死亡診断書が添付されていなかった。除籍の理由も「認定死亡」。行方不明者が長年帰らなかったため、家裁の審判で死者扱いされたのだ。
つまり、可能性として、まだ生きているかもしれない。
土地にまつわる家族の秘密
依頼者の父親は、若い頃に女性と駆け落ちして家を出たという話が、近所の古老から出てきた。兄はその女性との子どもだったらしい。複雑な家庭の構図が、登記の表面には現れなかった。
真実は、法務局の記録にはなかったのだ。
生前の遺言と無効な委任状
発見された古い遺言書は、兄が書いたとされるものだったが、署名も日付も不備だらけだった。法的には無効。さらに委任状も出てきたが、そこに記された住所が偽物であることが郵便局の照会で判明した。
誰かが“登記義務”を利用して、土地を乗っ取ろうとした形跡すらあった。
やれやれ、、、雨の中の現地調査
カッパを着て、サトウさんと現地に赴く。そこには、確かに人が住んでいる気配があった。廃屋だと思っていた建物から、薄明かりと音楽のようなものが漏れていた。
警察に通報するか、僕たちで立ち入るか、しばし迷ったが、結果は意外だった。
境界線に残された足跡
濡れた泥の上に、長靴の跡が新しくついていた。誰かがさっきまでそこにいたのだ。しかも、境界の杭の一つが抜かれていた。これで境界線の主張も変えられる。誰かが意図的にやっていたのだ。
そこに現れたのは、依頼者の兄その人だった。
名義人の死亡が呼ぶ疑惑
彼は、弟の裏切りから逃げるように姿を消したという。自分を死んだことにしてくれと頼んだのは、彼の方だった。土地を譲る代わりに、完全に家族から切り離されることを望んでいたのだ。
弟はそれを守り、登記を変えずに十年が経ってしまった。
実は生きていた兄の正体
兄は別名で生活していたが、病に倒れて戻ってきたのだという。もう長くない、と語り、弟に最後の義務を果たさせたかっただけらしい。だが、第三者が登記を狙っていたことには気づいていなかった。
その一部始終を見届けて、彼は再び姿を消した。
サトウさんの一撃とシンドウの逆転
「司法書士としての腕が鳴るってもんですね」冷たくもどこか楽しげに、サトウさんが言った。僕は重い資料の山と向き合いながら、全てを整える決意を固めた。
登記原因証明情報、委任状、戸籍、そして供述書。真実を残すには、書面がすべてだ。
供述書に書かれていない本当の動機
供述書には一切書かれなかったが、弟の中には兄への贖罪と、家族への誇りがあったのだろう。それを法務局に提出する書類で語ることはできない。
それでも、記録に残るものがある限り、僕たちの仕事は終わらない。
真実は登記簿の裏に
法というのは便利で、そして不自由だ。真実の一部は表面に出てくるが、多くは“なぜそうなったか”という部分を記録しない。だからこそ、推理と想像が必要なのだ。
兄弟の絆は、登記簿には書かれない。でも、確かにそこにあった。
兄弟の絆と罪の告白
あの土地はいずれ売られることになるだろう。だが、そこには兄弟だけが知る記憶が残る。過去に起きた罪、そして沈黙の告白。司法書士はそれを記録する立場にはないが、見届ける役目は果たしたい。
それが、僕の仕事なのだ。
それぞれの帰る場所へ
依頼者は一礼して、静かに事務所を去った。登記は無事に完了したが、そこに至るまでの過程が、何よりも重かった。
僕はデスクに戻り、コーヒーを一口すする。「やれやれ、、、」今日もまた、司法書士という名の探偵は、書類の山に囲まれている。
司法書士としての役割とは
法律に従い、正確に処理する。それが役目だ。でも、その裏にある人間の感情や過去を想像しなければ、本当に正しい判断はできない。
登記簿の行間に、僕は今日も何かを読み取ろうとしている。