朝の来客と失効した印鑑カード
午前九時を少し回った頃、まだコーヒーも飲み終えていないうちにインターホンが鳴った。モニターに映るのは見慣れない中年女性。表情は固く、右手にはやけに分厚い封筒を握っている。
「すみません、相談がありまして……」
受付に出たサトウさんが無表情で「少々お待ちください」と返すのを横目に、僕はまた一日が始まったことを悟った。
サトウさんの塩対応
「名刺はお持ちですか?」
サトウさんは淡々と聞きながら、依頼人を通すべきか一瞬で判断している。僕にはわからない何かを察知する力が、彼女にはあるらしい。
まるでサザエさんのワカメが冷静に家計を管理しているような安定感がある。僕は椅子の背もたれに沈みながら、彼女の判断に身を任せた。
依頼人の不自然な沈黙
封筒の中から出てきたのは、失効した印鑑カードと、古びた登記識別情報通知書。それをテーブルに置いた女性は、しばらく黙っていた。
「亡くなった兄のものです」とようやく口を開いたが、その声にはどこか迷いがあった。僕の中で、小さな違和感が芽を出した。
司法書士という仕事柄、こういう”間”には敏感にならざるを得ない。沈黙が語る真実もあるのだ。
机の引き出しに残された約束
数年前に扱った案件ファイルを探すため、僕は書庫の奥にある旧型キャビネットを開けた。アルファベット順に並ぶファイルの中に、その女性の旧姓を見つける。
当時の登記記録と照らし合わせると、兄とされる人物が唯一の相続人に全権を譲渡する旨の書面が残されていた。しかもその裏には、サインと日付が記されている。
けれども、それが法的に効力を持つものかどうかは別の話だった。
封筒に挟まれたメモ
もう一つの封筒には、走り書きのようなメモが挟まれていた。「あの約束は、ここまでにしてくれ」とだけ書かれた紙切れ。
どう見ても兄の筆跡だった。だが、それが誰宛なのかも、何を意味するのかも不明だった。
「サインじゃなくて、遺言か何かですかね?」とサトウさんがメモを見ながら言った。彼女がこんなふうに疑問を呈するのは珍しい。
旧姓の名前が記された謎
奇妙だったのは、相続関係説明図に記されていた名前が、依頼人の現在の姓ではなく旧姓になっていたことだ。
これは本人確認書類と齟齬がある。つまり、本人ではない可能性すらあるのだ。
僕は気づかれないように、こっそり登記情報システムを確認し、現在の名義と相違があることを突き止めた。
裏口の監視カメラが映したもの
夕方、僕は隣の不動産業者から防犯カメラの映像を借りてきた。先週の金曜、事務所裏口の前に数分立っていた女の姿が映っていた。
髪を結い上げた様子とコートの色が、今朝の来客と一致している。何かをポストに入れる仕草の直後、彼女は立ち去っていた。
翌朝、僕が何気なく拾った茶封筒。中には件の印鑑カードが入っていたことを思い出す。
誰が印鑑カードを持ち出したのか
映像の時間帯は、カードの紛失届が提出された翌日の夜だった。
つまり、彼女はカードが失効したことを知ったうえで、再びそれを戻してきたことになる。
自作自演にしてはリスクが高い。彼女が何かから逃げているように見えたのは、気のせいではなかった。
被害届と司法書士の立場
これは窃盗か、あるいは偽造未遂か。それとも単なる誤解か。
僕は警察に連絡すべきか迷ったが、すでに提出されている失効届がある以上、印鑑カード自体の法的効力は失われている。
司法書士として、どこまで踏み込むべきか頭を抱えた。
シンドウの苦しい選択
届けを出さなければ、あとから自分が責められる可能性もある。でも、彼女が抱えているものが、それ以上の重荷だったとしたら……。
僕は、誰かを守るような立場じゃない。だが、見て見ぬふりはできなかった。
この歳になって、ようやく正義なんて単純じゃないとわかってきた。
サトウさんの推理と冷ややかな視線
「たぶん、そのメモは兄から彼女宛じゃなくて、彼女から兄へのものですよ」
サトウさんは何気なくそう言った。僕は思わず聞き返す。「どういうこと?」
「だから、遺された側の”約束を終わらせてほしい”って意味なんです。印鑑カードを戻したのも、その証拠。」
視線は冷たく、けれど核心を突いていた。
「これ、気づいてませんよね」
彼女が指さしたのは、メモの裏。そこには、小さな日付が鉛筆で書かれていた。兄の死亡日より二日前だった。
つまり、まだ生きていた頃に書かれたものだ。
「このメモ、兄から彼女宛ですよ。最後の手紙かもしれませんね。」
やれやれ、、、俺の出番は、もうなかったらしい。
真相に近づく古い契約書
ファイルの奥から出てきた契約書には、土地の共有分割に関する文言があった。名義変更はされておらず、宙ぶらりんのままだ。
遺産相続でもめた末、兄がすべてを放棄する形に落ち着いたものらしい。
それが「ここまでにしてくれ」という言葉の意味だったのかもしれない。
破棄された登記申請の履歴
登記システムのログには、1年前に入力されながら未提出となっていた申請データが残っていた。
それは、兄の名義を妹に移す内容だった。たぶん途中でやめたのだろう。
僕はそのファイルをそっと閉じた。もう、この件に踏み込むべきではないと判断した。
沈黙する印鑑カードが語る真実
結局、印鑑カードは失効したまま。彼女は何も言わず、それを僕に渡して帰っていった。
あれは遺品であり、彼女なりの清算だったのかもしれない。
沈黙するカードが、誰よりも多くを語っていた気がした。
やれやれと言いつつ辿り着いた真相
僕は窓の外を見ながら、冷めたコーヒーを一口すする。
「やれやれ、、、」思わず口をついて出た。今日もまた、余計なものを拾ってしまった気がする。
だけどまあ、最後には何とかなったんだから、いいじゃないか。
最後の約束と再び動く登記
数週間後、同じ女性が再び事務所を訪れた。今度は別の相続登記の相談だった。
「ちゃんと手続きをして、兄にも安心してもらいたいんです」そう言って、彼女はまっすぐ僕を見た。
司法書士としての役割は、やはりここにあるのだろう。黙って頷くと、サトウさんが「最初からそうしていればよかったのに」とつぶやいた。