不在の依頼人
朝一番の電話
朝のコーヒーを飲みかけたタイミングで、事務所の電話が鳴った。ディスプレイには「非通知」とだけ表示されている。迷ったが取ると、年配の女性の声が震えていた。「夫が…そちらに伺ったはずなのですが、戻らないんです」 まさかの失踪相談かと背筋に汗が伝ったが、名前を聞くと、昨日登記の依頼をしてきた男性だった。申請書類の控えを見ると、確かに「本日再訪予定」とメモがある。
サトウさんの冷静な視線
「昨日、何か変だと思いませんでしたか?」とサトウさんが言う。冷ややかな目が僕のうっかりを刺す。「身分証明書の写しが妙に新しいのに、顔写真が古く見えました」 言われてみれば、あの運転免許証には違和感があった。写真がやたら昭和の刑事ドラマのような風貌で、今どき珍しい髪型だった。やれやれ、、、もっと早く気づくべきだったか。
登記申請の違和感
委任状の筆跡に宿る何か
念のために昨日受け取った委任状を見直す。達筆なのだが、妙に形が整いすぎている。コピー用紙に書いたものなのに、筆跡がまるで活字のように整っていた。「筆ペンアプリですかね」とサトウさんが皮肉る。 まさか、偽造? 嫌な予感が背中を駆け上がった。事務所内が急に冷え込むように感じたのは、クーラーのせいだけではない。
前回の来所記録との矛盾
さらに記録を遡ると、同姓同名の人物が一年前にも相談に来ていた。だが、そのときの署名と今回のものはまるで違う。何より、今回の依頼人は「初めての相談」と言っていたはずだ。 「名前を使ってるだけの別人かも」とサトウさんが言う。もしそうなら、なぜそんな面倒な手口で登記を試みたのか?目的は何か?
隠された過去
依頼人の不動産取得履歴
法務局の閉庁前ギリギリに、登記簿の閲覧申請をかけた。幸いPDF化された旧簿の写しを取り寄せられた。 すると、十年前に同じ物件をめぐる裁判記録が見つかった。原告の名は……今回の依頼人と同じだ。だが、被告も同じ名前。つまり兄弟で争っていた? その裁判の直後、相続がなぜか中断していた。
相続人の名前に潜む共通点
不思議だったのは、兄弟の名前の中に「同じ漢字」が多く使われていることだ。たとえば「義」とか「弘」とか。昔ながらの名付けの傾向かもしれないが、なぜか引っかかる。 「ひょっとして、双子とかじゃ?」サトウさんがぼそっと言う。やはり彼女は只者じゃない。
影の中の真実
公図の裏に眠る古い地目
もう一つ気になる点があった。現在の地目は宅地だが、古い公図では「墓地」と記載されていた。しかも所有者名義がずっと更新されていない。 墓地なら売買や相続には厳しい制限がある。つまり、それを隠して売却しようとする意図があるなら、それはれっきとした詐欺未遂だ。
証拠としての郵便物
過去の所有者に送った通知が戻ってきていた。差出人不明の転送依頼がなされていた痕跡もある。調査を進めると、郵便局の協力である住所からの転送先が特定できた。 それは依頼人が記載していた住所とはまったく別の、隣県の空き家だった。ついに尻尾をつかんだ。
サトウさんの推理
筆跡照合と住所の罠
サトウさんが手際よく筆跡鑑定アプリを使い、過去の署名と照合した。似てはいるが、微妙に癖が違う。特に「山」の画数の止めが逆だった。 「この人、たぶん本人じゃないですね。弟の名義を勝手に使ってます」彼女の断定に、背中に戦慄が走る。
調査報告書の一行に隠れた鍵
司法書士会のデータベースにある過去の調査報告書。そこに「兄弟間での所有権係争につき、家庭裁判所審理中」とある。つまり、まだ争いが決着していない物件だ。 それを勝手に「依頼人の名で売却」しようとしたのなら、完全にアウト。やれやれ、、、どうしてこういうことばかり起きるのか。
司法書士の逆転劇
やれやれとつぶやく決断の時
僕は改めて登記申請を取り下げる旨、依頼人(を名乗る人物)に電話をかけた。「書類に不備がありましてね…」とだけ伝えると、向こうは妙にあっさりと引き下がった。 「おかしいな」と思ったが、しばらくして警察から連絡があり、別件の詐欺容疑で同一人物が確保されたという。こちらの調査情報がきっかけになったらしい。
登記官への最終説明
法務局へ提出した調査報告と申請撤回書。登記官は「さすが、プロですね」と言ったが、内心では冷や汗ものだった。 「いやー、ただの勘ですから」と苦笑いするしかない。元野球部の直感が、たまには役立つものだ。
影が晴れるとき
依頼人の真意
後日、本物の依頼人である弟が来所し、「兄が勝手に…本当にすみません」と頭を下げた。 兄は昔から少し問題があり、金に困るとこうしたトラブルを起こしていたらしい。今回もたまたま名義変更の話を知って悪用したのだという。
そして静かに閉じられる事件
事件は起訴され、あとは法の判断を待つばかりとなった。僕たちは静かに、依頼人の感謝の言葉を聞いた。 「やれやれ、、、やっぱり事務仕事だけしていたいな」そうつぶやくと、サトウさんは「でも、顔が嬉しそうですよ」と皮肉を言った。 サザエさんのカツオがまたいたずらを見つけたような顔を、僕はしていたかもしれない。