二度葬られた証書
午後三時。蝉の声が窓の外でけたたましく鳴いている。事務所の冷房は古く、室内は生ぬるい風が漂っていた。僕は机の上に置かれた一通の封筒を手に取り、深いため息をついた。
「また公正証書かよ……」 封筒の差出人は、最近亡くなったという老人の息子だ。中身を確認するまでもなく、面倒な匂いしかしない。
古い公正証書が呼び起こしたもの
昭和六十三年の日付が入ったその公正証書は、土地の贈与を記載したもので、贈与者は亡くなった依頼人の父。受贈者は――本人ではなかった。なんと、すでに亡くなった遠縁の親戚の名がそこにあった。
贈与が二重に行われた? それとも公証人のミスか? しかし、日付を見る限り、どちらも正しいように見える。奇妙な既視感だけが、僕の背中をじわじわと汗で濡らしていく。
土地の所有者が二人存在する理由
登記簿を確認して僕は目を疑った。所有者が、父から息子に移った形跡と、もう一つ――まったく同じ土地が、別の時期に別の名前で登記されていたのだ。
まるでルパンが変装して何度も同じ宝石を盗んだみたいに。ひとつの土地が、二人の名義で生きている。これはもう、普通の話じゃない。
サトウさんの冷たい推理
「それ、たぶん二通あるんですよ」 サトウさんがコーヒーを淹れながらぼそりと言った。その冷静さに、僕は一瞬ぐうの音も出なかった。
「え、何が?」 「公正証書。似たような内容で、違う日に違う名前で作られた。コピーじゃないですよ、本物が二つ」 やれやれ、、、またサトウさんに先を越された。
僕の記憶違いはいつものこと
「昔、似たような話があった気がするんだけどな……」 僕は資料棚をガサゴソと漁った。十年ほど前に扱った、ある贈与の案件。あのときも二重登記が問題になった。
記憶は曖昧だったが、記録は正確だ。古いファイルの中に、今回とそっくりな地番の書類が残っていた。やっぱり、これは偶然じゃない。
依頼人は亡き父の影を追う
翌日、依頼人が来所した。顔はやつれていたが、礼儀正しい青年だった。彼の父がなぜそんな二重贈与をしたのかを知りたいという。
「父は生前、土地のことで誰かと揉めていたようなんです」 彼の言葉で、事件は家族の歴史へと足を踏み入れていくことになった。
古民家の登記に潜む矛盾
問題の土地には、今は誰も住んでいない古民家が建っていた。登記は依頼人の名義になっていたが、実はその直前まで、違う名義だった形跡がある。
「父は何を隠していたんでしょうか……」 古い家屋の写真を見ながら、彼はつぶやいた。
過去の贈与と現在の名義
昭和の終わりに一度贈与され、平成に入り別の贈与が重なった。そのいずれもが、法的に有効な公正証書によるものだった。にもかかわらず、登記は揺れていた。
いったい誰が本当の所有者なのか。今さら掘り返すのもどうかと思ったが、もう一度すべての証書を並べて検証し直すしかなかった。
相続ではなく生前贈与の罠
サトウさんがぽつりと言った。「相続じゃないんですよ、これ。生前に二回贈与してるからややこしい」 僕はその言葉にピンときた。
父親が一度贈与した土地を、後から取り戻して再度贈与した――いや、偽装したのかもしれない。意図的な工作。それが本当なら、かなりまずい話になる。
町役場の資料室で見たもの
僕は町役場の資料室に足を運んだ。紙の匂いが充満する中で、古い登記申請書の写しを探し続けた。誰かがこの記録を「残した」のか、それとも「消した」のか。
汗だくになりながら、ようやく一枚の資料を見つけた。そこには、見覚えのある筆跡で書かれた名前があった。
焼かれた写しと写し忘れた謎
昭和六十三年の贈与証書は、写しがすでに破棄されていた。それも、誰かの手によって「焼かれた」と推測できる痕跡が残っていた。
ところが、それと全く同じ日付の別の写しが、もう一通だけ保存されていた。依頼人の父が作成したもう一つの贈与証書だった。
決定的な証拠は二度存在した
その二通の証書は、確かに日付も内容も異なるが、署名の筆跡は同じ人物のものだった。そして公証人も同じだった。つまり――父親が意図的に二人の人間へ贈与を行った証拠がそこにあった。
「公証人はこれ、気づいていたと思います?」 サトウさんの問いに、僕は首を振るしかなかった。
サトウさんの冷ややかなひと言
「でもさ、偽物ってわけじゃないんだよね」 サトウさんはコーヒーを啜りながら、口元だけで笑った。「二度贈与したっていうか、最初の相手に取り消しの意思を伝えてないだけ」 やれやれ、、、また一筋縄ではいかない結末か。
結局、依頼人の父は生前のうちに、自分の都合で証書を使い分けていた。それを知る者は、もうこの世にいない。
嘘をついたのは書類の方です
「人は嘘をつくけど、書類は正直だって言いますよね。でも、書類こそが一番うそつきですよ」 サトウさんのその言葉が、ずしりと胸に響いた。
証書が語る真実を信じたばかりに、親族同士の信頼が壊れる。それが「法」としての重みだとしたら、僕たち司法書士の仕事とは、どこに向かうべきなのか。
真実は山奥の一枚の紙の中に
依頼人は、すべてを知った上で、黙って登記を修正する選択をした。「父が何を守りたかったのか、もうわかった気がします」 彼の目にうっすらと涙がにじんでいた。
書類の裏に隠された感情。紙に書かれた名前に込められた後悔。それらすべてを、法に則って整えていくのが僕の仕事だ。
僕たちは証書に踊らされていた
帰り道、サザエさんの再放送がラジオから流れていた。「あれ? また波平さんが庭に証文埋めてる回?」とサトウさんが呟く。
やれやれ、、、昭和も平成も、令和も、証書はやっぱり人を惑わせる。
二度死んだのは誰だったのか
証書が二度作られ、登記が二度変更され、真実が二度埋められた。 そのすべての裏にあるのは、一人の父親の孤独な決断だった。
僕は古びた封筒をそっと閉じ、棚にしまった。今日もまた、証書に人間の業を見た気がする。