午前九時の来訪者
その日もいつものように、コーヒーの香りが事務所に立ちこめていた。古びた時計が午前九時を告げたとき、ドアが静かに開いた。入ってきたのはスーツ姿の中年男性。神妙な面持ちで、手に一枚の登記事項証明書を握りしめていた。
「すみません……これ、本当に自分の土地なんでしょうか?」
その一言に、朝の空気がすっと変わった。私は、嫌な予感を感じ取っていた。
サトウさんの冷たい声
「そこの椅子、どうぞ」サトウさんの口調は相変わらず氷点下だ。相手が怯えようが動じない。彼女の視線はすでに登記簿にロックオンされていた。「ん……なんか変ですね。所有者の氏名と、委任状の記載が微妙に違います」
私は思わず椅子に深く腰かけた。朝から一筋縄ではいかなそうな相談に、頭が重くなる。「やれやれ、、、また厄介なパターンか」
まるで波平が髪の毛を一本むしられたような気分だ。
依頼人が差し出した謎の登記簿
依頼人が持ってきた登記簿には、確かに彼の名前があった。だが、その隣に添えられた委任状には、明らかに筆跡の異なる「もう一人の彼」が存在していた。住所も生年月日も一致する。しかし何かが違う。
まるで見えない双子のような感覚。私は書類を持つ手に力が入った。
「これは誰かが、なりすましてますね……」サトウさんがぼそっと言った。
謄本に書かれたもう一人の自分
私は依頼人の許可を得て、さらに詳しく調査を始めた。登記簿には彼の名前が、確かに存在している。それなのに、彼は言う。「ここに住んだこともなければ、この土地を買った記憶もない」と。
矛盾する記録と証言。ここまでくると、完全に“事件”のにおいがする。
探偵漫画の主人公なら、すでに半分推理を終えてるかもしれないが、こちらはただの司法書士だ。
住所も氏名も一致しているのに
不思議なことに、登記上の住所と依頼人の現住所は完全一致していた。電話番号まで同じ。しかし、彼は「この土地とは無関係です」と繰り返す。
私は疑いを胸に、市役所と法務局へ出向くことにした。サトウさんの目は、「また外出ですか?」と言わんばかりだった。
「ああもう、サザエさんのマスオさんみたいな日々だ……」私は呟いた。
ありえない日付と印鑑の謎
登記された日付は、依頼人が海外赴任していた時期とぴったり重なっていた。そして、印鑑……それは、依頼人のものではなかった。少なくとも現在使っている印影とは違っていた。
「印鑑登録証明……これが鍵かもしれませんね」私はようやく確信を得た。
すべては、なりすましによる登記。だが、なぜそんなことを?そして誰が?
司法書士シンドウのぐちぐち調査開始
再び戻ってきた事務所で、私は自分の机に沈み込んだ。事件の輪郭は見えつつあるが、確証がない。資料をひっくり返しても、頭が重くなるばかり。
「こういうときに限ってプリンターのインク切れるんだよな……」と愚痴りながら、書類を再印刷する。
司法書士なんて、名探偵にはなれないんだ。そうぼやく自分が情けない。
やれやれ仕事が増えるだけだ
依頼人は帰り、サトウさんも無言でパソコンに向かっている。重い空気が漂う中、私は再び一つ一つ、登記情報を精査していった。
そこに、奇妙な点を見つけた。印鑑証明の日付が、すでに死亡している人物のものであったのだ。
「まさか、死者の名を使って登記を……?」戦慄が走った。
市役所でのうっかりと旧友との再会
私は市役所の戸籍課に出向いた。旧友の職員が窓口にいて、「おう、シンドウ! まだ独身か?」と大声で言ってきたのにはまいった。やれやれ、、、こういうときに限って。
でも彼のおかげで情報はすぐに手に入った。死亡者の戸籍謄本と、なりすましの痕跡。繋がった。
これは確実に、誰かが死人の名前を使って不正登記をしていた。
証明書の影に潜む第三の存在
私の頭の中でピースが組み上がる。登記に必要な書類一式が、すべて偽造されていた。しかし、それを手に入れられる立場にあったのは……身内、もしくは司法関係者。
私は法務局に問い合わせ、過去に同一住所を使用した人物を確認した。
そこに出てきたのは、意外な名前だった。
住民票の移動履歴と空白の三ヶ月
依頼人の兄が、三ヶ月間だけ同じ住所に住んでいた形跡があった。しかもその間に、今回の登記が行われている。全てが一致する。
「兄弟間のトラブルか……」私は深くため息をついた。
事件は家族の中で起こっていたのだ。
謎の印鑑登録と夜の電話
夜になり、事務所に一本の電話が入った。声の主は震えていた。「弟には申し訳ないことをした。でも、どうしても金が必要だったんだ……」
それが、真犯人の自白だった。兄だった。
動機は借金。方法は、弟の名前を使って土地を売却することだった。
静かに逮捕された仮面の男
私の報告をもとに、警察は兄を任意同行した。証拠はすべて揃っていた。
「ありがとう……これでようやく、自分の人生を取り戻せます」依頼人は涙を浮かべていた。
私は何も言わず、ただ頷いた。やっと、この事件も終わる。
シンドウの独り言とサトウさんのため息
翌朝、私は机にうつ伏せになっていた。全身が鉛のように重い。「やれやれ、、、事件が片付いても、仕事は山積みだ」
サトウさんが無言でコーヒーを置いてくれた。ぬるくても、その一杯が染みる。
私は空を見上げ、今日もまた、誰かの影を追いかける覚悟を決めた。