朝の依頼人と原戸籍の謎
朝一番、うちの事務所に現れたのは、やや痩せ気味の中年男性だった。手に持っていたのは、黄ばみかけた戸籍謄本。彼は椅子に腰を下ろすなりこう言った。「この原戸籍に、私の名前が載っていないんです」。
戸籍というのは、戸の記録と書くが、その「戸」がどれだけ厄介なものかは、司法書士をやっていればすぐにわかる。特に原戸籍となると、読めない字、見つからない謎、そして失われた証明がつきものだ。
依頼人は、相続の手続きをするために父の原戸籍を追っていた。しかし、そこには自分の存在がどこにもなかったという。名前も、続柄も、養子縁組の記録すらないのだという。
古びた戸籍謄本に記された名前
見せられた原戸籍をひと目見て、僕は眉をひそめた。確かにそこには彼の名はない。しかし、明らかに一人分空いたような行が存在している。まるで誰かを意図的に削除したような空白だ。
不自然な削除線や訂正印もなく、ただの空欄。まるでマンガのコマが一つ抜け落ちているみたいだった。あのサザエさんのオープニングで、波平さんが転ぶシーンがカットされたような違和感。
「これは……相当古いものですね。何年頃のものか覚えていらっしゃいますか?」と尋ねると、彼は小さくうなずいた。「昭和五十年ごろだと思います」。
やれやれ、、、午前中から重たい空気
朝のコーヒーすら飲みきっていないのに、重たい案件を引き受けてしまった。いつもこうだ。依頼人の目を見ると断れない。胃がキリキリしてくる。
僕がうんうんと悩んでいると、向かいのデスクから冷たい声が飛んできた。「また流されましたね、センセイ」。振り向くと、サトウさんがすでに手元で戸籍システムを立ち上げている。
やれやれ、、、僕は今日もサトウさんに頭が上がらない。
サトウさんの冷静なツッコミ
「センセイ、この人、たぶん名字が変わってませんよね?」。淡々とした声が事務所に響く。彼女の目は既に原戸籍の行間を読み取っているらしい。
「うん、養子に入った割には名字が変わってない。これはちょっとおかしいね」と答えると、彼女は無言で画面をこちらに向けた。「はい、昭和四十九年、別の本籍地に同姓同名の男性がいます」。
まるでルパン三世が変装を解いた瞬間のような衝撃だった。名前は同じでも、記録はまるで別人だ。
養子縁組の履歴と不自然な空白
古い戸籍ではよくあることだが、このケースは特に複雑だった。まず、本籍地が移動している。次に、その移動直後に養子縁組の記録が見当たらない。
そして、最も奇妙なのは、原戸籍における空欄の存在。あれは、存在を消すための操作としか思えない。意図的に、誰かが彼の名前を戸籍から消したのだ。
「これは、、、家庭裁判所の許可があったのかな」僕のつぶやきに、サトウさんが「どうせなかったに決まってるでしょ」と即答する。たぶん、その通りだ。
あるはずの前妻と子の存在がどこにもない
さらに戸籍を追っていくと、依頼人の父には過去に一度結婚歴があることがわかった。ところが、その妻子の記録が一切見つからない。
名字が変わらないまま養子になったこと、空白の原戸籍、そして消された配偶者。全てが一つの線でつながっていくような気がした。
まるで少年探偵団が気づかぬうちに事件の核心をついていたときのような展開だ。
古い戸籍を追い求めて
僕とサトウさんは、市役所と法務局をまたいで、関連戸籍を追い続けた。紙の記録に手書きの修正、そして見えない何かに怯えたような訂正印。
ここまで来ると、すでに司法書士の仕事を超えている。だけど、こういうときこそ、自分が現場にいる意味があると思う。そうでも思わなきゃ、やってられない。
やっと手にした一枚の原戸籍。そこにだけ、依頼人の名前が薄く残っていた。
「これ、実は除籍されてるんですよ」
役所の担当者が言った。「この人、実は一度除籍されてるんですよ。けど復籍の届出が通っていないみたいですね」。なるほど、それで現在の戸籍に記録が無かったのか。
除籍後に復籍しなければ、今の戸籍に反映されない。それを知らなければ、存在そのものが消えたように見える。
人は法律の網の目の中で、こんなにも簡単に「消せる」ものなのかと、思わず背筋が寒くなった。
事件の結末と依頼人の涙
最終的に、除籍の記録を証明書として提出し、復籍していない事実を添えて相続登記を進めることができた。依頼人の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「父は……やっぱり僕を守ろうとしてたんでしょうか」。彼のその一言が、やたらと胸に響いた。名前を消すことは、過去を消すことじゃない。むしろ、残された人の記憶を守るための嘘もある。
やれやれ、、、戸籍って本当に重たい。