朝の契約書に潜む違和感
「ここの委任状、ちょっと変じゃないですか?」
サトウさんの声が静かに響いた朝、私はまだ湯気の立つコーヒーを手に、ぼんやりとした頭で書類を眺めていた。
恋人同士と思しき依頼人が持ち込んだ不動産の共有登記申請。表面上は何の問題もない。ただ、サトウさんの目はごまかせないらしい。
依頼人は突然に
二人はまるでマンガのようなカップルだった。男は営業職でトークが軽快、女は物静かでよく笑う。
「この物件にふたりで住むんです」と言っていたが、どこか芝居がかっていた。
ドラマの恋人役みたいな演技、でも本当にカメラが回っているわけじゃない。
手数料は愛では計れない
恋愛と司法手続きは別物だ。愛の強さで手数料が変わるなら、私は今頃大富豪だ。
「サインはしたけど、本当に全部理解してるのかな……」サトウさんがぽつりと漏らす。
私は苦笑いして書類を受け取りながらも、頭の中でどこかに引っかかる感覚が残っていた。
妙に控えめなカップル
ふたりの距離感は妙にぎこちなかった。つきあって長いような、でも初対面のような。
男が言った。「共有名義にすれば、問題ないですよね?」
私は答えた。「法的には、ね」。そしてその「ね」の重さに、自分で寒気がした。
婚約か委任か曖昧な関係
提出された委任状には、細かく代理権が書かれていた。
でも、その文言がどれも中途半端で、愛情よりもビジネス感が漂っている。
おまけに、名前の訂正跡がある。しかも修正印じゃなく、ただの二重線。これは雑すぎる。
サトウさんの冷たい分析
「この女性、以前に別の男性と登記申請してますよ。氏名の変更届も出てません」
サトウさんが端末をパタリと閉じた。
「恋人じゃなくて、ただの依頼者。男の方が知らないだけ」そう言い切るその姿は、まるでルパン三世の峰不二子のように冷たくて美しい。
登記理由が語られない
本来ならば、なぜこの物件を共有にするかを丁寧に聞く必要がある。
けれど男は軽く笑って「彼女と住む家なんで」と言うだけだった。
理由があやふやなまま話を進めるのは、登記においては致命的だ。
契約書に残る過去の痕跡
契約書の控えには、別人の署名が透けて見えた。コピー元の書類を流用したのだろう。
「これ、前回の登記とそっくりです」サトウさんが並べて見せた二枚の契約書は、まるでコピー用紙とその裏写りのようだった。
「恋人を取り替えるたびに共有登記を申請する女……サザエさんでもこんな展開は無理だな」と私は呟いた。
恋と登記の食い違い
男は純粋に信じていた。女は法的に動いていた。それが真相だ。
「この委任状、無効になりますよ」と私が言うと、男の顔が真っ青になった。
その目には、愛と法の違いを理解した瞬間の虚無が宿っていた。
元カノの名前が浮上する
「やれやれ、、、俺、やっぱり見る目がないんですね」男はそう言って笑った。
その笑顔が痛々しくて、私は何も言えなかった。
でも内心では、よくある“恋愛詐欺未遂”の被害者としては、かなり軽症で済んだと安堵していた。
委任状の効力をめぐる攻防
委任の有効性は、本当の意思表示と内容の一致にかかっている。
女が署名したとされる書類には、筆跡のばらつきがあった。
結局、全ては計画された「名義乗っ取り」の未遂だったとわかった。
最後に残された小さな証拠
コピー機の裏に、破れた委任状の断片が残っていた。
そこには「佐藤涼子」の名があった。前回の共有登記の女性名義と一致。
もはや、女の行動はパターン化されたビジネススキームだったのだ。
元野球部の勘が働く
「これ、決め球ですね」私はその断片を手に、元ピッチャーの勘にニヤリとした。
サトウさんは「珍しく冴えてますね」と言いながら、背を向けて微笑んだ気がした。
私は久々に、ちゃんと役に立てた気がした。
そして誰も手数料を払わなかった
男は登記を取り下げ、女は姿を消した。
結局、誰も恋の代償を支払わずに済んだ。書類上は、何も残らなかった。
けれど、愛の委任状が無効だったことだけは、法的にも心情的にも証明された。
解決編それでも恋は登録できない
書類は捨てられ、恋も消えた。
残ったのは、ほんの少しの気づきだけだった。
法の外にあるものを、私は今日も処理しきれずにいる。
シンドウのつぶやきとサトウさんの無言
「恋ってやつは、やっぱり非課税対象だな……でも怖いのは、損益が読めないことか」
私のつぶやきに、サトウさんは何も返さなかった。
その無言が妙にあたたかく、妙に冷たかった。