無断欠席の相続人
梅雨入り目前の灰色の空を見上げながら、俺は古い一軒家の前で立ち尽くしていた。呼び鈴を押しても返事はない。郵便受けには未開封の通知が山のように詰まっている。俺の依頼は、この家の住人が提出した「相続放棄申述書」に関する確認だった。
「無断で学校を休んでた奴が、今度は相続まで休んじまったか」と、心の中で独り言をつぶやいた。
相続放棄の申述書が語ること
依頼者は亡くなった男性の兄。亡き弟には子どもが一人いたが、その子が家庭裁判所に相続放棄の申述をしていたらしい。ただ、書類には一つだけ不自然な点があった。申述人の署名欄が鉛筆書きだったのだ。
それを見た瞬間、サトウさんの声が頭をよぎった。「普通、鉛筆で出すバカいませんよ」そう、あの塩対応の声で。
古びた家に残された通知書
家の裏手にまわり、台所の窓をノックしてみると、中からかすかな物音がした。数分後、少年のような影がのそのそと姿を現した。警戒心いっぱいの目をしたその少年こそ、今回の“相続人”だった。
彼の手には、破られた通知書が握られていた。俺は司法書士バッジを見せながら静かに言った。「少しだけ話を聞かせてくれないか」
忘れられた封筒と封印された過去
家の中は埃だらけで、壁には「毎朝8時に登校すること」と書かれた貼り紙が残っていた。その下の引き出しを開けると、茶封筒が入っていた。中には、父親の死亡届と未提出の相続関係説明図。
「どうしてこれ、出さなかったんだ?」と聞くと、少年はぽつりと答えた。「出せって言われてないから」
サトウさんの違和感
事務所に戻って報告すると、サトウさんは目を細めながら言った。「そもそも相続放棄の申述、あれ偽造かもしれませんね」彼女の勘はよく当たる。今回も例外ではなかった。
申述書の形式が古く、しかも管轄の家庭裁判所が違っていた。まるで、誰かが見よう見まねで書いたような不出来な代物だった。
被相続人の死と未成年後見の記録
戸籍を調べると、少年の母親は数年前に蒸発しており、父親が親権者だった。しかし、その父親も半年前に病死。少年は実質的に一人きりで暮らしていたのだった。
そして、後見人の申立てもされていないことが判明した。つまり、少年は無防備な状態で書類の処理に直面していたのだ。
学校に行かない少年の事情
少年が不登校になった理由は、父親の看病だった。日中は病院、夜は家事。学校に行く余裕などなかった。そんな彼にとって、役所からの書類などただの“敵”でしかなかったのだ。
「父さんが死んでから、何もかも面倒くさくなった」と、彼はぼそりとつぶやいた。
隠された母親の嘘
もうひとつの違和感、それは母親の存在だった。少年の話では、最後に母が現れたのは父親が死んだ翌週。そのとき、何枚かの書類を持ち帰っていったらしい。
つまり——あの鉛筆書きの相続放棄書は、母親が“代筆”した可能性がある。
やれやれこれはまたやっかいな
「やれやれ、、、未成年者の相続放棄に親権者の代筆、しかも鉛筆かよ」俺は額を押さえてため息をついた。そんなルパン三世の変装よりも雑な偽装があるか。
だが、だからこそ真実は分かりやすい。素人の嘘には、逆にヒントが詰まっている。
名義を放棄した理由とその裏側
母親に連絡を取ると、彼女は「私は何も知りません」と言い張ったが、やがてぽつりとこう漏らした。「あの子に遺産を渡したくなかった。全部、父親の責任よ」
彼女が持ち去った書類のうち、数枚は今回の相続書類だった。封筒には鉛筆で彼女の筆跡が残っていた。
鍵がかかった書庫と破られた誓約書
父親の書斎には、未提出の公正証書遺言が保管されていた。その鍵は仏壇の引き出しにあった。少年と一緒に開けてみると、中には「全財産を息子に遺す」と明記されていた。
そして同封された誓約書には、「この遺言は、必ず彼の意思で受け取るように」と、強い筆致で書かれていた。
代理人を名乗る男の正体
遺言の話を聞きつけて、急に「代理人」を名乗る男が現れた。彼は母親の新しい交際相手で、少年の相続権を盾に財産を狙っていた。
だが、遺言書と放棄の無効が認められれば、彼の計画は水の泡。役者気取りで現れたが、最後には警察に連れて行かれた。
家族の記憶と一枚の写真
騒動が収まり、少年と仏壇の前に座った。そこには、父親と笑顔で写る少年の写真が飾られていた。「これ、小学校に上がる前の夏祭りの写真です」
少年は、少しだけ笑った。その笑顔に、父親の面影が重なって見えた。
裁判所の決定と静かな涙
後日、家庭裁判所は放棄の申述を却下。遺言書に基づく相続が正式に進められることになった。少年は、父親の家を守る立場となった。
決定を聞いた少年は、小さく「ありがとう」と言って泣いた。その涙は、ようやく訪れた安堵の証だった。
最後に届いたサトウさんの報告
「例の母親、どうやら別件でもトラブル抱えてたみたいですよ」サトウさんが静かに資料を置いた。やはり彼女の読みは鋭い。
俺はコーヒーをすするふりをしながら、溜息をついた。「やっぱり世の中、ルパン三世より厄介な奴がいるもんだな」
シンドウの独り言と次の依頼
静まり返った事務所で、ふと窓の外を見上げる。雲の隙間から光が差していた。「不登校でも、家にいても、相続ってのはやってくるもんだな」
机の上には、次の依頼の封筒が置かれている。俺はまた、サトウさんに呼ばれる前に動き出す。
人は書類で嘘をつくが嘘が証拠になる
人は紙に書くことで、嘘を真実に見せかけようとする。でも、書かれた嘘は必ずどこかに矛盾を残す。そこに司法書士の出番がある。
今日もまた、俺はその矛盾を拾い集め、静かに真実を照らす。