顔のない申請書

顔のない申請書

午前九時の違和感

「おはようございます」と言うより先に、サトウさんは机の上の封筒を見て立ち止まった。 それは昨日の夕方、僕が帰る直前にポストに入っていた登記申請書の一式だ。 依頼人の名前はあった。印鑑も。だが、そのときから何かひっかかる感覚があった。

封筒に足りない何か

「写真、入ってませんけど」とサトウさんが言った。 ああ、それか、と僕はようやくその正体に気づいた。 委任状の裏に添付されているべき、本人確認の顔写真付き書類がなかったのだ。

サトウさんの眉が動いたとき

眉がピクリと動くとき、たいていは面倒なことになる。 「昨日、確認しましたか?」とサトウさんに聞かれ、僕は少し目を逸らした。 やれやれ、、、昨日は疲れてて、そこまで確認していなかったんだ。

誰の顔も映っていない

念のためにデータを確認したが、住民票の写しも免許証のコピーもなかった。 まるで、誰かが意図的に「顔」を消しているようだった。 記録には確かに依頼人の氏名があり、受け取りのサインも残っていた。

写真添付のはずの本人確認資料

司法書士としての手続きに、本人確認は欠かせない。 不動産登記ならなおさらだ。 だが今回、なぜそれが提出されなかったのかがわからなかった。

見覚えのない印鑑と署名

印鑑も署名も、一見すれば整っているように見える。 だが、長年の勘で違和感を覚えた。 見覚えがあるようで、どこかズレているのだ。

登記申請書の空白

いつも通りの書類に見える。 しかし“それらしさ”で隠された罠のようなものがあった。 どこかに、大事な何かが「書かれていない」気がしてならなかった。

依頼人の記憶は曖昧

電話で確認しようとしても、連絡先がつながらなかった。 受け付け票の番号も、調査したら使い捨ての携帯だった。 まるで幽霊と取引をしていたような気持ちになった。

相談室に残されたお茶の温もり

応接室のテーブルには、昨日の茶器が残っていた。 まだ微かに温かい湯呑みに、違和感だけが漂っていた。 “確かにいた”痕跡はある。けれど“誰か”がいたとは言い切れない。

サトウさんの追跡

サトウさんはパソコンの前に座ると、黙々と調査を始めた。 僕より何倍も早く、そして正確に手掛かりを拾い上げる。 「変ですね」と呟く声が、事件の核心を突いてきた。

過去の似たケースを検索

登記の記録を洗っていたサトウさんが、小さく息を呑んだ。 「3年前にも似たような申請がありました。同じ名前で」 同姓同名、同じ印影、でも“顔がない”登記だった。

防犯カメラと時間のズレ

事務所前のカメラには、誰かが封筒を投函する姿が映っていた。 だが、その時間は僕の帰宅後だった。 つまり、僕は“封筒を受け取ったつもり”で、その場にはいなかった。

思い込みと盲点

司法書士として、書類を信じる癖が染みついていた。 きちんとした紙に、きちんとした印。 だがそこに“人”はいなかった。いたのは、作られた「人物像」だけだった。

「顔」があると信じていた

僕は顔を見たつもりだったのだ。 きっと、サザエさんのオープニングみたいに、頭の中で勝手に“顔”が補完されたのだろう。 真実を見ていなかったのは、僕の方だった。

僕の机にあった封筒の中身

もう一度、慎重に封筒を開けてみた。 その中に、裏返しになったもう一枚の紙があった。 そこには「次もまた、お願いするかもね」とだけ書かれていた。

顔のない申請書の正体

結果として、登記はされていなかった。 でもそれは、僕たちが最後の一線で止めたからだ。 もし気づかなければ、この“顔のない人物”はまた一歩、現実に近づいていたかもしれない。

登記が終わっていた理由

書類は揃っていた。 だが、わずかな不備を理由に法務局は補正を求めていた。 その通知が、ギリギリ僕の手元に届いていたのが救いだった。

やれやれまたかという日常の裏で

サトウさんは淡々とお茶を淹れてくれた。 僕は深いため息をついた。 やれやれ、、、顔が見えるから安心って時代じゃないのかもな。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓