朝の静寂と三通の書類
書類に走る違和感
その朝、事務所に届いたのは三通の委任状だった。いずれも同じ不動産の売買に関するもので、売主・買主・仲介業者のそれぞれが押印していた。だが、そのうちの一通にだけ、証人欄が空欄のままだった。 僕は最初、単なる記入漏れだと思った。だが、サトウさんがその書類を無言で僕の机に置いた時の顔は、サザエさんが波平に「またハゲが増えてるわよ」と言う時と同じ無慈悲さだった。
サトウさんの無言の視線
「これ、ちょっと見たほうがいいですよ」と言う代わりに、サトウさんは目だけで語った。 『何かヘンですよ、気づきません?』という圧をビシビシと感じた。やれやれ、、、朝から全力で気を遣わされるのは勘弁してほしい。 僕は眼鏡をずらしてその委任状をもう一度見つめた。書類自体はフォーマット通り。けれど、証人欄だけがぽっかりと空白で、まるで誰かの意図がそこに沈んでいるようだった。
奇妙な依頼人の正体
白紙の委任状に託された謎
その書類を持参したのは、中年の男性だった。どこか胡散臭い笑顔を浮かべながら、「全部こちらで準備してありますから」と言っていたが、あの言葉こそが地雷だった。 不動産取引では証人欄が空欄であること自体、即座に違法とは言えない。しかし、違和感は違和感として残る。まるで怪盗キッドが予告状を出す前から、どこかに月が浮かんでいるような、そんな感じだ。
消えた署名の謎
三通のうち、なぜ一通だけが未記入なのか?という点が引っかかる。サトウさん曰く「証人欄は後から書き足した可能性もある」とのこと。 それはつまり、最初に三通すべてが同じ内容で作られたのではないという証拠になりうる。 「誰かが、最初から何かを隠すために、証人欄を使った」。そんな考えが頭をよぎったとき、僕の背中にひやりとしたものが走った。
登記のための証人欄
サトウさんの不信感
「この物件、過去にも登記の遅延がありましたよ」とサトウさんが言う。彼女は登記簿謄本と過去の売買記録をすでに洗っていた。 その手際の良さには感謝しかないが、彼女の言う「ちょっと気になる」とは、だいたいの場合、爆発の予兆だ。かつても彼女の「ちょっと」が、印紙偽造事件の糸口になった。 僕はサトウさんの言葉を聞くと、無条件でPCに向かって調査を始めてしまう。ある意味、調教師に調教された動物のようなものだ。
一文字の違いが呼ぶ違和感
物件所在地の表記に微妙な違いがあった。「三丁目」と「3丁目」。記号ではなく、書き手の癖に関する問題だった。 「誰かが、あえて表記を変えて複数の書類を作った可能性がありますね」とサトウさんが言う。僕は「まさかそんな漫画みたいな話が、、、」と口にしたが、過去にも“コピーした謄本の裏に走り書きがあった”という事例を経験していた。
手書きの署名と印鑑のずれ
元野球部の直感
委任状に押された印影と、別の契約書の印影が微妙にずれていた。通常なら気づかない程度の違いだが、元野球部の僕の目は、ストライクゾーン外のボールを見極めるのには長けている。 「これ、印鑑じゃなくてスタンプじゃないですか?」とサトウさん。そう、インクのにじみ方が、どう見ても機械的だった。 これで、全てが見えた気がした。証人欄の空白は、むしろ「偽装の手順漏れ」だったのだ。
消された証人の名
事務所のシュレッダー横のゴミ箱から、破かれた紙の一片を見つけたのはサトウさんだった。 「これ、名前の下半分じゃないですか?」 そこには『しんどう』と読めるような筆跡があった。 、、、まさか、俺が証人にされかけてた? やれやれ、、、自分が事件の一部になっていたとは。
不動産会社との接触
サザエさん的な社長の違和感
「どうも〜!いやぁ、あれね、手違い手違い」と軽く笑う不動産会社の社長。完全にサザエさんの花沢不動産的キャラだが、笑顔の奥に妙な焦りが見えた。 彼の机上には、まだ封も切っていない三通の委任状があった。その中身は、我々が受け取ったものと日付も違えば、記載事項も違っていた。
コピーと原本の食い違い
不動産会社が提出した写しと、我々が受け取った原本の内容が違っていた。明らかに、複数のバージョンが存在していたのだ。 誰かが、書類を入れ替え、証人を入れ替え、印鑑を偽造し、取引を完了させようとしていた。その「誰か」は、恐らく「全員」だったのだ。
登記官の一言で全てが動く
裏にあった二重売買の構図
登記官が言った。「この物件、別名義で同日申請が入っています」。僕の背中がぞわりとした。 二重売買。そして、どちらかの委任状が偽物というわけだ。 すぐに警察に連絡を入れ、不動産会社の関係者は事情聴取へ。僕たちは事件の鍵を、証人欄の空白から引き出したのだ。
法務局での偶然の再会
翌週、法務局で事件の報告書をまとめていたとき、偶然にも、偽造の片棒を担いでいた元司法書士と出くわした。 彼はすでに登録抹消されており、「あんた、まだ現場でやってんのか」と笑った。その言葉に、なぜか少し救われた気がした。
サトウさんの推理と解決
証人欄に隠された本当の意図
「証人欄を埋めたかったのは、きっと罪悪感でしょうね」とサトウさんが言った。 証人がいなければ、誰も嘘を暴いてくれない。けれど、証人がいれば、いつか真実は暴かれる。犯人はその矛盾に気づいたが、最終的に「証人欄を空欄にする」という最悪の選択をしてしまった。
やれやれと呟いた午後
事件が一段落し、事務所でお茶を入れていた僕は、小さく呟いた。「やれやれ、、、」 その横で、サトウさんはスコーンにジャムを乗せながら言った。「次はスムーズに登記が終わるといいですね」 いや、終わらせたい。切実に。
エピローグとお茶請け
正しい署名とほんの少しの信頼
証人欄には、正しい名前が記載され、正しい印鑑が押された。手間はかかったが、それこそが司法書士の本懐だ。 依頼者にとっては「ただの手続き」でも、僕らにとっては「信頼の設計図」だ。次もまた、誰かの空白を埋める仕事になるのだろう。 やれやれ、、、それが終われば、ようやく土曜日の予定を考える余裕もできる。たぶん、予定なんてないけれど。