登記簿が招いた静かな訪問者
その朝は、特に変わったこともない月曜日だった。湿気を含んだ風が古い事務所のガラス戸を揺らしていた。コーヒーを淹れようとして手が滑り、粉を机にぶちまけた時、インターホンが鳴った。
ドアの向こうには、小柄な女性が静かに立っていた。薄いグレーのスーツに、どこか影のある瞳。名乗らず、彼女はこう切り出した。「この家の登記について、お力を借りたいのです」。
妙な静けさが、彼女の周囲に漂っていた。あれは、何かを飲み込んでしまった者の静けさだと、あとで気づくことになる。
奇妙な依頼は月曜の朝に
女性が差し出した資料には、すでに閉鎖された登記簿が数枚綴じられていた。相続登記がされぬまま放置された一軒家。それ自体は珍しい話ではない。
ただ、そこに記された最後の所有者の氏名が、彼女の名と一致していたのが気になった。なのに、彼女は「私の家ではありません」と言うのだった。
矛盾の中に、淡々とした表情だけが残った。どこかで見たような光景。まるでサザエさんで波平が怒鳴ったあと、誰もツッコまない静寂のようだった。
サトウさんの冷たい一言
「これ、第三者から見れば相続放棄の逃げ口上にしか聞こえませんね」
サトウさんは、書類をぱらぱらとめくりながらそう呟いた。皮肉ではなく、ただの事実のように言うから質が悪い。
彼女の指先が止まったのは、数十年前の「住所変更」の記録だった。見過ごされがちな一行に、私は首をかしげた。
登記簿の端に見えた違和感
変更登記の際、旧住所が「○○町二丁目三番地」とあるのに対し、新住所は「○○町三番地二丁目」になっていた。逆になっている。
「単なる記載ミスじゃないか?」と言った私に、サトウさんは即答した。「それなら法務局の訂正印があるはずです」
たしかに、それはなかった。つまりこれは、ミスではなく、誰かが意図してやった操作。そう考えると、登記簿は立派な犯行現場のように見えてきた。
一枚の書類が示す過去
調査のために向かったのは、女性のいう“実家”がある町の役場だった。事情を話すと、住民票の除票と戸籍附票の古いものを閲覧できることになった。
しかし、そこには驚くべき事実が記されていた。現在の住所には、数十年も前から“彼女”が住んでいた形跡がないのだ。
となると、彼女は一体誰なのか。あるいは、本当に他人の家に名義だけが残された状態なのか。すべてが霧の中に思えた。
名義の奥に潜む名前
古い除票には、見慣れた名前が一つあった。「柴田弘明」。
それは、私が過去に担当した任意後見契約の被後見人だった。認知症を発症し、長男に監護されたあと所在が分からなくなった人物だ。
「まさか、またここで繋がるとはね…」とつぶやくと、サトウさんがすかさず返した。「ご縁って怖いですね」。
空き家なのに届く通知
近隣住民の話では、最近になって固定資産税の督促状が「柴田弘明」名義で届いたらしい。空き家なのに。
しかも、差出人は都内の司法書士事務所。おそらく、登記簿上の所有者にまつわる何らかの動きがあったのだろう。
私はその事務所に連絡を取り、事情を聞き出した。すると、意外な言葉が返ってきた。「名義は書き換えられていますよ、もう」
役所での違和感と確信
再度登記簿を閲覧すると、確かに名義は「柴田弘明」から第三者へと変更されていた。しかし、委任状が偽造だった疑いがあるという。
住所の記載ミスを利用し、書類を別人のものとして提出する。つまり、意図的な“登記トリック”だ。
だがそれにしても、なぜ今になって? なぜ、あの女性は「私の家ではない」と言いながら登記を気にしていたのか?
謄本の裏に隠された年号
資料の裏面に、うっすらとコピー跡があった。消しゴムのカスのような跡が、実に不自然に並んでいた。
「これ、修正テープ使ってません?」サトウさんが指摘した通り、委任状の日付が改ざんされていた形跡がある。
やれやれ、、、。まるで怪盗キッドが仕掛けたようなイタズラだ。だがこれは、誰かの生活を奪う犯罪だ。
ご近所トラブルとその真相
聞き込みを進めると、隣人がぽろりと漏らした。「あの家、実は昔、家族トラブルで揉めてたんだよ」
詳しく聞けば、柴田弘明には事実婚の相手がいたが、戸籍上は他人のままだったという。そして、その相手こそが、あの女性だった。
登記簿には残らなかったが、彼女には確かに“住んでいた記憶”がある。それゆえに、取り戻したい気持ちもあったのだろう。
知られざる家族構成
家裁の記録を調べると、柴田の長男が財産をすべて相続した形跡が残っていた。だが、相続放棄の届け出も提出されていた。
「どうも、息子が勝手に登記移転して売却しようとしたんですね」とサトウさん。
不自然な委任状。消された住所。すべてが、“他人のふり”をするための仕掛けだった。
亡き人の影が揺れる夜
夕方、女性が再び訪れた。「やっぱり、私の家だったんです」。静かな声が、事務所に響いた。
私は彼女に、事実関係と登記の問題点、そして相続人である可能性について伝えた。
「でも、私は法律上、他人なんですよね」――その言葉が、胸に刺さった。
古びた遺言と指紋の謎
数日後、彼女から茶封筒が届いた。中には、柴田弘明直筆の遺言書。日付とともに、印鑑が押されていた。
念のため鑑定を依頼すると、本物と判明した。遺言には「私の死後、○○町の土地建物は○○(彼女の名)に譲渡する」とあった。
皮肉にも、その遺言は生前に法的手続を経ていなかった。だが、道は開けた。遺言執行による登記が可能だ。
追い込まれた容疑者の涙
柴田の長男が連絡してきた。「全部俺がやった」と告白した。名義を使い、土地を売ろうとした理由は“借金返済”。
「でも、あの女が父を奪ったんだ。許せなかった」とも口にした。
家族の形は様々だ。だが、法は“書かれたもの”にしか基づけない。そこがまた、残酷でもある。
サトウさんの冷静な推理
「この遺言がなかったら、全部闇に葬られてましたよ」
サトウさんの言葉は、冷たいようで温かかった。真実が書類に残ったこと。それが唯一の救いだった。
私は心の中で、「ありがとう」とつぶやいた。
真実は書類に宿る
最終的に、遺言に基づく登記移転が完了した。女性の名が、正式に登記簿へ記された。
新たな所有者となった彼女は、ようやく「お帰りなさい」と言える場所を取り戻したのだ。
登記簿は、冷たい紙の束かもしれない。でも、そこに刻まれるのは、誰かの人生の記憶だ。
やれやれの決着とひとときの静けさ
事務所に戻り、冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦かった。麦茶にすればよかった。
サトウさんは、すでに今日の報告書を作り終えていた。すごすぎる、という言葉を飲み込んだ。
「…やれやれ、、、事件は登記簿より奇なり、ですね」そう言うと、サトウさんはそっぽを向いた。